HISTORY

 
第48話 足立文太郎と韮山尋常中学校
 

2017/3/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

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旧湯ヶ島小学校にある
足立文太郎先生の顕彰碑

 足立文太郎という人物をご存じでしょうか。戦前解剖医学の権威として京都大学医学部の教授をされた方ですが、作家井上靖の岳父であります。井上靖といえば「しろばんば」の作品がよく知られており、この中におぬい婆さんが出てきます。彼女は井上靖の曽祖父の井上潔の妾にあたるおかの婆さんのことです。
 井上潔とは何者かといいますと、幕末に蘭方医松本良順に師事した医者で、明治初期の足柄県時代の韮山病院院長代理として伊豆医療の先駆をなした方です。晩年は湯ヶ島に隠遁したといいますが、自分の妹の息子である足立文太郎(井上潔の甥)を大変可愛がり、将来の医者にしようと思ったようで、文太郎の親代わりになります。
 そこで文太郎は明治12年(1879)に韮山高校の前身にあたる韮山尋常中学校に入学します。翌年同校が火事に遭ったため、沼津尋常中学校に移って学び、その後上京し東京大学予備門に入り、東京大学医科大学に進みます。
 東京大学では作家星新一の祖父にあたる小金井良精教授に出会い、解剖学の分野に進み、卒業後はドイツのストラスブルク大学に留学します。この大学の近くに住んでいたのが後にランバレネの太陽と呼ばれたシュバイツアー博士(医者、神学者)で、文太郎は当地で博士と親交を深めたのでした。
 明治37年(1904)に帰国した文太郎は、第三高等学校教授をへて京都大学医学部の教授として迎えられ、ここで人体軟部に着目することで軟部人類学の創設者として知られるようになります。筋や小児斑、汗腺、わきがなどについて人種的差異があることを強く主張したのでした。そしてその後大阪高等医専(現大阪大学医学部)初代学長に就きます。白い巨塔ではない時代で、確か漫画家の手塚治虫もここで学んでいます。文太郎の主たる研究成果は、『日本人の動脈系統の研究』『日本人の静脈系統の研究』のドイツ語本や『日本人体質の研究』といった著書が知られているようです。
 文太郎の顕彰碑が今は閉校となった湯ヶ島小学校にあります。この碑に井上靖が揮毫した「懸命不動」の文字が刻まれており、これは座右の銘にした言葉だったといいます。碑文には「…畢生の事業たる日本人体質の研究に没頭、軟部人類学の創設者として、世界の学会に重きをなす。…」とその業績を讃えた文が刻まれています。
 文太郎は靖が将来作家になることを一目で見抜いたと言われ、靖も終生尊敬していたといわれています。そんな足立文太郎先生の学び舎が今日山上コートの場所で、当時はそこに建てられていた校舎で学んだのです。
 伊豆半島の医療は井上潔と足立文太郎先生が原点です。

 
第47話 伊豆学校校長代理田中萃一郎と福沢諭吉
 

2017/2/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

history

 慶応大学と韮山高校の関係については、33話でお伝えしたところですが、福沢諭吉は終生坦庵公を尊敬しておりましたし、柏木忠俊にも著書や訳書を贈っていました。それほど江川家には恩義を感じていたわけですが、田中萃(すい)一郎(一八七三~一九二三)もそんな一人であります。
 田中萃一郎について、どれだけの韮高関係者は知っているでしょうか。明治時代前期に田中鳥雄という函南の大竹村出身の県会議員が国政に打って出て3回ほど代議士を務めた人物がおります。県会議員時代はその豪快な風貌として知られましたが、萃一郎はまさに彼の長男にあたります。経歴では函南尋常小学校卒とありますから、今の函南小学校でしょうか、ここを卒業して上京し慶応義塾に入学します。このあたりは柏木忠俊の影響を受けた父の鳥雄が推したのではないかと思われます。
 慶応義塾大学では史学を専攻し、主に東洋史学の研究に専念します。福沢諭吉もおおいに萃一郎に注目したのでしょう。萃一郎は慶応義塾大学一期の卒業生として、卒業後は地元に帰り、伊豆学校(現韮山高校)の校長心得に就きます。私立伊豆学校は坦庵公の嗣子である英武が校長として設立した中等学校でしたが、経営難で、萃一郎が就任した頃はかなり財政上逼迫していた時期だと思います。それでも『東方近世史』をまとめています。
 数か月後、萃一郎は郷里で腰を落ち着ける暇もないまま、再び福沢諭吉の要請で慶応義塾に戻ってきます。そして明治38年(1905)からイギリス、ドイツ、フランスに留学し、ライプツィヒ大学で高名なカール・ゴットハルト・ランプレヒト博士に師事し、研究を進めます。明治40年(1907)帰国後、明治43年(1910年)に中国の史書を積極的に取り入れて、中国と西洋の史学比較研究を通じて近代歴史学を構築し、慶應義塾大学に史学科を創設するのです。
 萃一郎は東洋史学のみならず西洋史にも造詣が深く、今日で言うところの世界史的な学問体系を唱えた人物で、後の慶応義塾大学塾長となった小泉信三は教え子になります。
 慶応義塾における三田史学会を創設したのは萃一郎その人で、大学では主に東洋史を教授し、大正10年(1921)、は東京商科大学(現一橋大学)で国家学概論も担当しました。日本史学会の雄としてその名が知られるも、大正12年(1923)に新潟県の瀬波温泉で脳溢血のために逝去しました。
 韮山高校と福沢諭吉との関係は校舎だけでなく、教授陣の中にもいたわけで、大変身近に感じる話です。萃一郎の長男の田中和雄氏は函南町長を三期務めておりますし、三男田中荊三は慶応大学文学名誉教授になっていますから、田中家は伊豆と東京とでその後も活躍したことがわかります。



第46話 外交官矢田七太郎

2016/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


外交官

 韮山高校の前身である伊豆学校については以前触れたことがあります。伊豆学校は坦庵公の子息英武氏が校長として勤務され、伊豆半島の俊才たちが学んだことで知られています。当時学んだ学生たちはその後各界で活躍していきましたが、その中の一人に矢田七太郎(1879~1957)という人物がいたことを紹介したいと思います。
 矢田という苗字から旧大仁町の宗光寺出身で、伊豆学校から早稲田中学校へ転校し、帝大(東京大学)に進みます。帝大在学中は坦庵公の研究をし、『幕末之偉人江川坦庵』を上梓しております。序文にこう書いています。
「坦庵公は予が同郷の洗傑なり予も公の郷里に生れ育ち、また令嗣英武氏の創立せる韮山校に学び、先生の感化を受けること少なからず。時代は相隔つとも、予は最も忠実なる先生の弟子の一人なり」
 矢田自身相当に坦庵公を崇拝し、このことが本を書く動機となったようです。そして坦庵公の海防の外交政策に着目し、外交官への道を選択するのです。
 明治40(1907)年に外交官試験に合格した矢田は中国領事館勤務を命ぜられ、大正元(1912)年に三等書記官としてイタリア大使館に赴任します。一等書記官に昇格してからはイギリス大使館勤務、さらにロンドン総領事の任につきます。矢田は背も高かったとのことですが、鼻下に髭をたくわえることで、日本人離れした風貌で外交任務を遂行したといいます(エチオピア人と間違えられたというエピソードもあります)。
 その後サンフランシスコやスイス総領事勤務をし、昭和9(1934)年1月に地元へ帰省した折には、田京駅から広瀬神社までの沿道で盛大な歓迎が行われました。
 翌月、今度は建国された満州帝国の参議府参議の拝命を受け、溥儀の側近となります。溥儀とは清国ラストエンペラーである宣統帝溥儀のことです。
 昭和10(1935)年4月に溥儀皇帝の日本訪問の随員として同行し、昭和12(1937)年に参議の職を解かれ、ようやく退職かと思われましたが、昭和15(1940)年に上海の東亜同文書院大学の院長兼学長に就任します。これは矢田が近衛文麿との交流から要請されたもので、近衛文麿は当時の首相であった人物ですから、矢田の外交官としての知名度を知る目安となるでしょう。
 戦後は公職追放の対象となり、年齢も70歳近くなっていましたので矢田は職に就かず、東京代々木で余生を過ごしました。
 韮山高校出身の外交官はあまり聞きませんが、このような人物を輩出していることは記憶に留めていいと思います。坦庵公の教えの影響を感じさせてくれるとともに、在校生や若き卒業生にも是非世界に羽ばたく仕事をしてもらえればと思います。
 
 
 
 



第45話 郷土研究と伊豆半島地図

2016/8/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


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 韮山反射炉がユネスコの世界文化遺産に認定されたのが昨年7月8日のことで1周年を迎えました。このことで来場者は前年の6.8倍、72万人余を数えたといいますから、凄まじい勢いです。改めて郷土の歴史研究の貴重な資源と思ったのですが、現在韮山高校には郷土研究部がありません。小生が在学中にはありましたが…。
 私事ですが、現在静岡県高等学校郷土研究連盟の仕事をしており、本県の郷土研究部を数えると一桁台にあることに寂しさを感じます。部員が集まらないために廃部となっている学校が多く、何とか熱心な先生を開拓しているところです。レキジョ(歴女)も増えると思います。
 以前に第39話で校歌作詞者の穂積忠先生が、この郷土教育(研究)推進のために昭和6年1月に本校に赴任したことはお伝えしました。それ以前に韮山中学校教諭であった石井廣夫先生がこの郷土教育の調査協力者として指名され、月数回ほど訪問することになったそうです。この石井廣夫先生とは国学者萩原正平の嗣子であり、代議士萩原正夫の弟です。卒業生で60代以上の方ですとカーブこと石井岩夫先生のおじいさんに当たります。
 穂積先生がメインで、石井先生が補佐する形で昭和10年の韮山中学校の郷土教育事業として次の文書が残されています。それは次のものです。
  1、伊豆名所古蹟絵端書蒐集及びその解説(完成)
  1、韮山城址の模型。反射爐模型。韮山村現地模型の作製(完成)
 後者のものは社会科教室で見かけたように思います。
 さて、穂積先生は昭和6年4月に労作教育を推進する山本校長から郷土研究部長に指名され、生徒から部員を募ったところ20人ほどが集まりました。
 初年度は地理的研究と精神科学研究に分け、穂積先生は後者の指導担当になったので、民俗学的面に着目し、最初に収集要目目安を編輯し、次に方言収集と伝説、民間年中行事の研究に着手します。それは師匠の折口信夫先生やその上の師匠の柳田国男先生の流れからでしょう。この時の担当部員は5年生と1年生の10人ほどで、風俗習慣調査と方言採集整理を行っています。一方の地理的研究では伊豆半島のレプリカを作成します。これは現在の韮山高校図書室の奥に配置されています。見事なもので、是非一度ご覧ください。
 翌年には郷土地理関係は地歴部に併合されたため、精神科学を主とした郷土部として一本化されます。1・2年生は家紋及び符牒採集、3・4年生は龍城山の模型作り、民間年中行事の採集研究・昔話の採集を、5年生は伊豆国神社の研究、民謡の採集をそれぞれ段階的に行うなど高いレベルの部活動が存在しておりました。
 
 
 
 
 


第44話 後北条家と韮山高校

2016/6/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


韮山高校
後北条家

 韮山高校では江川坦庵公を学祖と仰ぎ、「忍」を校訓に文武両道を教育目標に掲げており、江川家あっての韮山高校のイメージ大ですが、実は後北条家も相当に関係大であることを認識してもらいたいと思います。既に23話で「龍城山と北条早雲」と題してご紹介してはあるのですが、まず現在の校舎の敷地が早雲の居住した館であったということです。早雲は堀越公方の足利茶々丸を追悼して、伊豆を平定したとあります。このことで早雲は戦国大名の先駆けとなったとされ、彼が教科書でゴシックになっている理由はここにあります。
 築城した韮山城は、龍が臥していることを模して龍城山と呼ばれるようになりますが、この名をいただいた韮高生は「龍城健児」と呼ばれる所以です。小生は「貴様、それでも龍城健児か!」と応援団に怒鳴られた歌唱指導を思い出します。近年は「龍城學報」のニュースが学校内外で流されておりますので、学校の様子を知ることができます。
 さて、早雲の子である氏綱は、父親が伊勢新九郎盛時(宗瑞)などと名乗っていたことに対して今一つの気持をもっていました。あえて北条氏を名乗ったのは、関東管領の上杉ら旧来勢力からみた時に、伊勢氏は外来の侵略者とみなされていたからです。そこで相模守護だった扇谷上杉氏に代わって相模国主としての正当性を得るため、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名を継承したのでした。
 早雲はお墓の中で、勝手に俺の名前を変えるなと思ったかどうか知りませんが、死後名づけられた名前となります。諱(いみな)とはちょっと違います。
 さらに後北条氏は家紋を「三つ鱗」としました。この三つ鱗が実は韮山高校校章に取り入れられています。ご存知の方もいらっしゃいますが、意外に卒業生で知らない方が多いです。よく間違えられたのは韮の字を模したというのですが、これは植物のニラを単に表しただけで、その後方に控える三角形こそ後北条の家紋です。
 つまり「龍城」という名称以外に、この家紋が韮山高校に大きく関係しているということになります(デザインは大正12年に美術の彦坂繁三郎先生が考案)。
 一方江川家は後北条家の家臣として代々仕えてきたのですが、第28代の英長は徳川家康に仕えます。なぜそうしたのかわかりませんが、秀吉の小田原征伐の時に家康の命を受けた江川英長は北条氏規に和議をすすめて開城に成功させるのです。これで江川家は大きくポイントを稼ぎ、なんと後北条家の家臣から徳川家の家臣に代わっていくのです。
 龍城山を眺めていると、そうした歴史の衰亡があったのかと感慨にふけます。
 
 
 
 
 


第43話 ハイレベルの学友会報・松籟

2016/4/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


松籟

 平成28年度新学期が始まりました。この時期は運動部はインターハイ予選があり、文化部は龍城祭に向けての準備が始まります。今年1月に後援会から韮高新聞が送付されましたが、小生も写真報道部の部活名でカラー刷りの見事な新聞を手にしました。ああ、韮高生たちはがんばっているんだなあという感慨と、かつてのモノクロの韮高新聞を思い出しました。
 このところ「龍城山下の作家たち」というテーマで文学関係を書いてきましたが、その土台は生徒会誌の『松籟』でしょう。この『松籟』の起源は『学友会報』にあり、これは明治30年(1897)に初めて刊行されました。旧制韮山中学校が発足して間もない頃です。今日で言うところの同窓会会報と生徒会会報が一緒になったようなもの、あるいは『松籟』と『龍城論叢』が合体したと思えばいいでしょう。
 当初は生徒の部活動の様子や遠足等の学校行事が詳細に報告されていましたが、次第に生徒や教員が随筆や評論を載せたり、短歌を発表する場になっていったようでした。
 校歌作詞者の穂積忠先生の恩師である加藤在巣先生は、白秋の門下におりましたが、この『学友会報』に歌や評論を寄せています。「沙金鈔」(百首)を発表し、この中で加藤先生は冒頭、「我、韮山に居住して既に二年有半、郷愁に胸ふさぎ慰め兼ねつる時折のありのすさびに詠み棄てし歌屑三千首にあまりぬ…」などと書き、自らの仮住まいを「炷薫草盧」と名づけています。これに対して穂積先生は茅愁と号して歌を寄せています。
 昭和2年(1927)2月発刊の『松籟』第30号は、大正天皇崩御に伴い、挽歌や反歌等が寄せられています。またこの号では小川五郎すなわち作家の高杉一郎先生が卒業生総代として答辞を述べています。この中で、「刻々滔々トシテ寄スル新思想ノ破濤ハ全社会ヲ揺シ世ヲ駆ッテ質實ノ風ヨリ詭激軽佻ノ俗ニ至ラシメンヤウシテヰマス」と書かれていますが、大正デモクラシー後の共産主義思想なのでしょうか。さらに「アノ城跡ノ松声ハ永ニ我等ガ彷徨ノ心ニ故郷ノ地ヲ思ヒ出サセテ呉レルデセウ」と、松籟を意識した文言が散りばめられています。
 戦前の『松籟』に寄せられた文章は、生徒も教員もハイレベルなもので、戦時中をはさみ、戦後昭和26年1月に復刊第1号が出されます。冒頭には「松風の音きくときはいにしへのひじりの如くわれはさびしむ」と斎藤茂吉の一句が寄せられ、「学生弁論について」とその後代議士になった小島静馬氏の評論が寄せられています。この号には全国を制したバレーボール部の様子も書かれています。
 韮山高校の国語力アップには是非、かつての『学友会報』や『松籟』を読むことをお勧めします。
 かくして龍城山下の作家たちは生まれたのです。
 
 
 
 




第42話 小出正吾と童話の世界

2016/2/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


小出正吾

 龍城山下の作家といえば、童話作家の小出正吾(1897~1990)が知られています。小出先生の祖父である市兵衛は、明治時代にプロテスタントのバラ宣教師を匿った人物で、義兄の花島兵右衛門と共に洗礼を受けました。このため孫にあたる小出先生自身も中学時代に受洗しキリスト教信者となっています。このことは彼の童話世界に大きく影響を与えたものと思われます。
 広い樹林のある箱根山麓の裾に、祖父市兵衛の山荘がありました。そこは市兵衛の屋号、桔梗屋の「桔」と市兵衛さんの「市」から「桔市(きいち)の山」と呼ばれ、多種の雑木に囲まれた、小出先生にとっての遊び場でした。戦後はここに居を移し、終の棲家としました。「桔市の山」とその周辺での思い出は、たくさんの小出童話となって作中にその面影を残しています。
 先ほどの中学時代とは旧制韮山中学校の時で、明治42年~大正3年まで在籍しました。彫刻家の澤田政廣も同じ頃学校に在籍した時があります。当時は江川坦庵公を学祖と仰いでいた時期でしたから小出先生も大変な影響を受けたようで、「忍」はもちろん、「敬慎第一、実用専務」といった坦庵公の精神を吹き込まれています。小出先生は伝記「江川太郎左衛門の話」を書いているのはその証左でしょう。実はこれは小出先生没後に発見された未発表原稿で、戦時中書いていたのですが戦後墨塗り対象者となったことで未発表になってしまっていたものです。
 中学校卒業後は早稲田大学に入学しますが、在学中に早稲田応援歌を作詞しています。またこの時寮の隣に坪田譲治がいて、彼の影響を受けて児童文学に興味をもつことになります。卒業後は貿易会社に従事し、24歳の時、10か月ほどインドネシアで暮らしたことがありました。
 そして大正11年(1922)郷里に戻り、キリスト教の新聞に創作童話を連載し、童話作家として出発します。その後、再び上京し、昭和2年(1927)に年明治学院中等部に職を得、高等部教授に就任して昭和19年(1944)まで務めます。
 空襲が激しくなったため、郷里三島に戻り終戦を迎え、戦後は三島市教育委員長に就任し、キリスト教ヒューマニズムの立場で創作を行っていきます。原水爆反対の会の会長になったのはそうした見地からでしょう。
 昭和41年(1966)から6年間日本児童文学者協会会長を務め、昭和50(1975)年には『ジンタの音』で野間児童文芸賞を受
賞しました。中央町にある文学碑には「子どもには、子どもの世界がある」と刻まれています。
 
 
 
 


 
 
第41話 高杉一郎 ~龍城山下の作家たち

2015/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


高杉一郎

 前回、前々回と穂積忠先生について紹介しましたが、韮山高校関係者に文学と関わった人物は他にもおります。
 高杉一郎(1908~2008)という名の作家をご存知でしょうか。シベリア抑留体験を書いた『極光のかげに』で一躍文壇にデビューし、その後は作家業と静岡大学教授として教壇に立った人物ですが、彼もまた龍城山下で学んだ龍城健児であったのです。
 高杉一郎はペンネームで、本名は小川五郎といいます。旧中伊豆町の白岩の生まれで、幼少時から天城山系を眺めて育ち、実家の上には巨峰で有名な大井上康博士が住んでいました。小学校時には大井上博士からフランス語を学び、「ラ・マルセイエーズ」を歌わせられたといいます。
 旧制韮山中学校へは自転車で修善寺駅まで行き、そこから当時二両連結の駿豆線に乗って通学しました。この頃の韮山中学校の講堂には、大きな目をくりむいた江川坦庵公の自画像が掲げられ、それを毎日仰ぎ見、坦庵公の伝記を読んでは理想像としていたことを述懐しています。
 1926(大正15)年に韮山中学校を卒業した後は、東京文理科大学(現筑波大学)英文科を卒業し、改造社に勤務した後、徴兵されてシベリア抑留を体験したのです。この時の過酷な収容所の体験記が戦後刊行されて、その内容をめぐって賛否をもたらすも、芥川賞候補となり、ベストセラーとなります。賛否についてはスターリン崇拝者と批判者の中で、理想とするソ連像とのギャップがあったからでしょう。
 高杉先生の奥様も教育者として戦後新制中伊豆中学校の教壇に立ち、やがて三島南高校への勤務を推薦されます。この時の三島南高校の校長が穂積忠で、高杉夫妻との縁がつながります。なお高杉先生の奥様の妹は日本共産党議長であった宮本顕治に嫁いでいます。また娘さんたちもロシア文学者として著名であります。
 高杉先生はその後静岡大学教授となって教鞭をとりながら、静岡県文学連盟を立ち上げ、無名だった小川国夫に着目するなど若手作家を育てていきます。その一方でロシア語の翻訳やアグネス・スメドレーの英語の翻訳をするなど精力的に動きました。99歳の長命で亡くなられましたが、生前少しでも取材できればと残念です。
 沼津東高校は井上靖をはじめ、芹沢光治良、大岡信といった作家を輩出し、韮山高校は美術家を輩出してきたことで知られていますが、実は穂積忠やこの高杉一郎といった文学関係者も先輩たちの中にいたことを忘れないでいただきたいと思います。
 小生も作家を夢見ていましたが、夢は夢に終わり、しがないサラリーマン教師となりました。


 
 
第40話 韮中生時代の穂積忠

2015/10/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


 さて、前回に続く穂積忠について語りたいと思います。特に穂積忠が歌人となるきっかけとなった旧制韮山中学校在籍中の話です。
穂積忠が韮山中学校に入学したのは、大正2年4月のことで、明治天皇崩御により乃木希典が殉職したのはこれより半年ほど前の9月のことになります。
 穂積が韮山中学校在籍中、英語教師の加藤丈夫に出会います。当時加藤は北原白秋の弟子であり、在巣(アルス)と号する歌人でした。穂積に対して「……歌は白秋にかぎる。僕は白秋の弟子だ。君も一心に勉強するなら、巡礼詩社にも紹介しようと言はれた。……」と短歌の世界と白秋の存在を教えたのでした。
 加藤在巣は韮山中学校学友会会報で自ら詠んだ歌を発表しています。学友会会報はその後の「松籟」のことです。加藤が詠んだ歌を紹介したいと思います。
 
 淡々と薄霧る空に香ひして若芽くゆらし韮山の春
 狩野川の川瀬に若鮎つる竿の仄揺れ光る薄闇の中
 
 当時加藤は韮山山木に居住し、田方平野を歩いてこれら歌を詠んだのでしょう。早速穂積も茅愁の号で2年次から歌を寄せていますが、その中の歌として、
 
 白臘の如き姉の手凝視むればその白きよりかなしみのわく。
 病幾たび癒ゆるが如く思はれし姉もゆくべき生命なりけり。
 
 亡き姉を詠ったもので、憐憫の情を見事に表現しています。
 ところが、加藤は大正7年1月に亡くなります。穂積はこの時伊東で静養しており、師の傍に駆けつけることはできませんでした。この想いを翌年の学友会報に託します。この時の学友会報は「加藤先生を悼む」と題して追悼文が寄せられ、穂積自身も次のような歌を詠んでいます。
 
 虚蝉の生命なれば君殺し日にけに投息くそのなげき苦し。
 空蝉の人のこの代に子を殺し汝が父母の心いかならむ。
 
 深い悲しみの中、穂積は生老病死に向かいあい、見事に歌にしていきます。この時の歌は結びに句読点をつけていますが、白秋との関係が深くなるとこの句読点は消えていきます(注;白秋死後は再び句読点をつけるようになります)。
 そして旧制中学校を卒業し、進学先には国学院大学を選びました。この年に高等師範部が創設されたこともありますが、何よりも「万葉集」口訳で評価を得た折口信夫が同学で教えていることを聞き、入学を決意したのでした。
 この頃旧制韮山中学校では新たな校歌について懸賞募集をしましたが、なかなか決まりませんでした。穂積が大学を卒業して三島高等女学校で教鞭をとるようになった大正14年、作詞者として白羽の矢が立ちます。「空を仰げば魂ゆらぎ~♪」は、こうしてできたのでした。
 
 
 


 
第39話 旧制韮山中学校と穂積忠

2015/8/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

写真

 ついに韮山反射炉が明治日本の産業革命遺産として世界文化遺産となり、泉下の坦庵公もさぞほっとされたかと思います。関係者のここまで至る働きかけには頭が下がります。本当にお疲れ様でした。そしておめでとうございます。
 さて、この度、私事ながら韮山高校校歌作詞者の穂積忠の研究について上梓する機会を得ました。我らが先輩であり、著名な歌人である穂積忠先生について細々と研究してきたものではありますが、世間には子息穂積隆信氏が俳優としてその名前を知らしめており、父親の忠先生があまり評価されずにきたことに小生は気に病んでおりました。
 先生の作詞された校歌については、第19話「韮高校歌秘話」で紹介しましたが、この時は三島高等女学校に勤務していました。その後昭和6(1931)年1月20に旧制韮山中学校に赴任しました。年度途中であり残り2か月を残して転勤とはどういうことだったのでしょうか。
 実は忠先生は郷土教育(郷土研究)を田方郡下で推進するために、急遽転勤を命じられたからでした。昭和6年5月に静岡県学務部(現在の県教委)から郷土研究調査についての文書が残されています。この年国は各県にこのことを通達し、全国的規模で展開されたのでした。とりわけ旧制韮山中学校は田方郡の尋常高等小学校の統括的役割をもっていましたので、当然その旗振り役が必要だったわけです。
 その白羽の矢が、歌人である忠先生に立ったのはなぜでしょうか。忠先生は歌の師匠は北原白秋先生でしたが、学問の師匠は折口信夫先生でした。折口先生は民俗学者として知られ、その師匠にはさらに柳田國男がおりました。忠先生はこの両名と関わり民俗学についても勉強していたのでした。忠先生の研究に「伊豆の塞の神」「伊豆道祖神雑藁」といった論文も残されています。
 こうした理由で忠先生は郷土研究部の部長として、生徒と共に郷土研究を行ったのでした。残されたメモには「江戸時代の歌人及び俳人の研究」といった本業の短歌に関する研究や、「方言の採集及び伝説の採訪」といった民俗学の研究の題目が書かれています。
 さらにこの頃、山本幸雄県視学官が校長として赴任してきます。山本校長は労作教育の推進者であり、前年から始まった郷土教育と合体させて新たな教育を展開させていったのでした。忠先生はこうした校長の要請を受けながら、10年余り郷土教育分野で尽力したのです。旧制韮山中学校にはかような使命をもって赴任したのでした。
 傍らでは本業の短歌の世界を堅持し、白秋のもとに通いながら多磨短歌会発足に骨を折り、自ら
の処女歌集『雪祭』を昭和14(1939)年暮に出版しました。この歌集はいくつかの賞を受賞し、歌壇に穂積忠の名前を大きく刻んだのでした。そして忠先生は2年後、伊東高等女学校に校長として赴任していきます。
 
 
 
 


第38話 教科書にみる江川坦庵

2015/6/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
江川坦庵

 先月は韮山反射炉がイコモスから世界遺産登録の勧告されました。
 さて、戦前の教科書には韮山反射炉はもちろんのこと、坦庵公の名前はしっかり記述されていました。昭和18(1943)年発行の『初等科国史下巻』(文部省、東京書籍発行)には、「……高島四郎太夫・江川太郎左衛門らを用ひて、新しい兵器や戦術を研究させ、軍備の充実をはかりました。」とあり、韮山の反射炉の写真が掲載されています。代々代官の世襲名である太郎左衛門を明記しています。同様に大正10(1921)年発行の『新訂中学日本歴史下巻』(明治書院)にも、「……また高島四郎太夫秋帆・江川太郎左衛門坦庵をして、西洋の兵学・砲術を研究せしめ兵器を作らしめたり。」と記述し、やはり反射炉の写真を載せています。
 つまり戦前の教育を受けた人たちは誰しもが坦庵公のことや反射炉のことは知っていたのでした。小生の故伯父は栃木県に在住していましたが、戦前の修学旅行でなんと韮山反射炉がそのコースにあったと言っていました。
 ところが、戦後GHQ指令による軍事色の払拭のためにいわゆる墨塗りの対象となり、坦庵公の名前や反射炉は教科書から抹消されてしまったのです。
 坦庵公没後100年を記念して昭和30(1955)年に戸羽山瀚が『江川坦庵全集』をまとめられましたが、教科書記述には至りませんでした。小生は昭和50年代前半の高校時代に山川出版社の日本史教科書(当時赤色の表紙)を使いましたが、やはりそこには坦庵公の名前はありませんでした。
 その後、仲田正之先生が昭和60(1985)年に吉川弘文館から人物叢書『江川坦庵』を発刊し、かなりこの書籍が普及し、やがて仲田先生自身が坦庵研究で平成10(1998)年に博士号を取得したことで、坦庵公の再評価が決定的となり、現在は日本史Bの教科書に江川太郎左衛門の事績として記述されています。
 例えば、桐原書店『新日本史B』(2003年検定)には、「1853(嘉永6)年には幕府代官の江川太郎左衛門(英竜)も、伊豆韮山に反射炉を築造し、……」とあり、山川出版社『詳説日本史B』;(2012年検定)には、「幕府も末期には、代官江川太郎左衛門(坦庵)に命じて伊豆韮山に反射炉を築かせた。これら幕府や雄藩の洋式工業は、明治維新後に官営工業の模範となった。」と記述され、反射炉の写真も掲載されるようになりました。
 その他実教出版『日本史B』では脚注ですが、「秋帆から高島流砲術を伝授された幕府代官江川太郎左衛門(坦庵)は、伊豆韮山に反射炉をきずき大砲を鋳造したほか、……」と記述しており、ようやく認知度が高まってきましたが、まだまだ戦前の足元にも及びません。小生は学生時代、東京と京都に住みましたが、当時坦庵公の名前を挙げても相手にしてもらえませんでした。韮山高校の学祖である坦庵公の扱いについて、これまで反射炉の歴史等から伝えてきましたが、ご理解いただけたでしょうか。



 
第37話 反射炉あれこれ

2015/4/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 

 韮山反射炉の世界遺産認定決定までいよいよとなりました。昨年9月にイコモス(国際記念物遺跡会議)の現地調査が行われましたが、はたしてどうなるでしょうか。
 ここでは反射炉の裏話をお伝えします。小生は高校1年時の最初の遠足で訪れましたが、あの頃は無料で見学できたように記憶しています。
 さて反射炉の使用は1857(安政4)年に始まり、1864(元治元)年に中止となります。1866(慶応2)年に幕府直営から江川家私営となるのですが、維新後の1873(明治6)年3月に陸軍省に移管されたのです。
 その後反射炉は放置され、荒れるにまかされていたので、江川家当主の英武も大変悩みました。たまたま坦庵公没後50周年(1905)の頃、日露戦争勝利後で、反射炉が「日本における砲兵工廠の鼻祖」として保存気運が高まりました。この機に運動の先頭に立ったのが英武長女しげ子の女婿である山田三良(1869~1965、東大法学部教授)でした。彼が新聞・雑誌を介して保存運動を行ったところ、時の陸軍大臣寺内正毅が着目し、1908(明治41)年、陸軍省後援のもと補修工事が行われたのでした。この補修工事により鉄柵が施されます。坦庵公追慕会になぜ寺内正毅が出席したのかは、こうした理由からでした。
 大正時代になりますと、1922(大正11)年3月に内務省に移管され、この時反射炉は史跡名勝天然記念物法によって国史跡に指定されました。そして反射炉の維持・保存のために有志による「韮山反射炉保勝会」も組織され、当然のことながら会長に山田三良が、副会長に仁田大八郎が就いたのです。
 反射炉横に立派な石碑が建っています。「反射鑪碑」と揮毫されていますが、これは韮山反射炉保勝会が国史跡指定を記念してのものでした。標題の揮毫者は皇族の閑院宮載仁親王で、親王はこの当時陸軍大将でした。撰文は漢学者で東京大学教授を歴任した三島毅が行い、1926(大正15)年10月に建立されました。碑の内容は坦庵公が反射炉を建設にするにあたっての当時の背景や概況が刻まれ、最後に英敏や英武について触れています。ただ撰文されたのが1911(明治44)年になっているのは、おそらく補修工事が行われたのを記念して既に依頼されて書いてあったものと思われます。
 その後、1930(昭和5)年の北伊豆地震によって北側炉の煙突上部が崩壊するなどの被害を受けますが、1957(昭和32)年に再び鉄骨フレームが施され耐震補強されます。
 かなりの風雪をくぐりながら反射炉が存続してきたことを知っていただければと思います。
 英武女婿の山田博士に感謝です。


 
第36話 坦庵会と韮山高校

2015/2/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
韮山高校の歴史とその周辺

 本年は江川坦庵没後160年にあたります。亡くなったのは安政2(1855)年ですから、前年11月に安政の東海地震があって2か月後という時期です。
 本校学祖である坦庵公について、学校独自として顕彰しようという動きは坦庵公没後55年を記念しようというところからはじまりました。55年目は明治42(1909)年で、坦庵公の生まれた酉年にあたりました。命日が1月16日でしたから、早速この日に坦庵先生追慕会が開催されました。もちろんこの背景には前回紹介しました子息英武先生や英武先生の女婿である山田三良(東大教授)の尽力があったことが大きかったと思います。この月に山田教授のおかげで、韮山反射炉に現在あるような鉄柵の補強工事をすることができたのです。
 さて、追慕会には陸軍大臣寺内正毅をはじめとする各界の著名人たちが出席し、一般参観人は3000人を超えたといいます。時の県知事李家隆介が追慕之辞を、地元の元代議士である大村和吉郎とその後代議士になった床次竹二郎がそれぞれ追慕詞を読み上げています。そして英武先生からは謝辞が述べられ、ようやく坦庵公が旧制韮山中学校で学祖として改めて内外に印象づけた日でした。
 その後坦庵公を顕彰しようという動きが有志たちから起こり、昭和2(1927)年12月に坦庵会趣意書が作成されました。趣意書は「幕末の偉人江川太郎左衛門坦庵先生は天資英俊にして徳は文武を兼ね技は衆能を綜ぶ……」で始まり、「敬慎第一実用専務」主義を貫いたことが書かれています。さらに門弟として佐久間象山・橋本佐内・木戸孝允・井上馨・黒田清隆・大山巌・杉孫七郎・大鳥圭介等の名が挙げられ、坦庵公について徳川斉昭が「一方の長城」と、安積良齋が「文武兼備勇略超倫」とそれぞれ称したことも記されています。おそらく坦庵会は翌年1月16日を発足日としたのでしょう。
 そして第30話でもお伝えしたように昭和14(1939)年の1月16日には坦庵公胸像が建てられ、当日除幕式が行われたのでした。この前日は大相撲の横綱双葉山が、安芸ノ海に敗れて69連勝でストップするという大事件にも値する日で、除幕式当日の静岡民友新聞にはその模様が書かれ、その下に坦庵公の胸像の写真が掲載されていました。
 こうした先人たちが坦庵公を偲んできたことを紹介するとともに、ご冥福をお祈りしたいと思います。(合掌)


 第35話 江川英武と坦庵顕彰

2014/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 

 坦庵公の嗣子である江川英武(1853~1933)は、韮山高校の前身である私立伊豆学校の校長であったことはよく知られているところです。小生はこれまでしばしば伊豆学校の存在をお伝えする中で、英武の教育面について取り上げてきましたが、晩年の英武は実の父である坦庵公の顕彰にひたすら務めた一人であることをここでは伝えたいと思います。
 英武は坦庵公の次男とはいえ、坦庵晩年の子どもなので坦庵が亡くなった時は齢わずか2歳でした。兄の英敏はその時16歳でしたから、父親のことはよく知っていたと思われますが、英武はほとんど覚えていない状況だったでしょう。にもかかわらず、父親を崇拝したのは、功臣であった柏木忠俊の影響があったと思われます。
 田中村(旧大仁町)教育会副会長である古見一夫は、大正7年1月16日の坦庵公命日の日に江川邸を訪問し、英武に坦庵公についての講演依頼をお願いしたところ快諾されます。古見が校長を務める田中尋常高等小学校(現大仁小学校)では坦庵公を景仰し、玄関正面に肖像を掲げ、毎月16日の日は職員児童一同坦庵公の墓のある韮山本立寺の方向に遥拝していたほどでした。
 さて、翌年の大正8年3月に、英武は田中尋常高等小学校に来校し、「亡父の訓言につきて」と題し講演を行いました。講堂には児童のみならず500人を超える村民があふれたといいます。この内容はその後、「坦庵先生の敬慎主義」と題して筆耕され関係者に配布されました。序文は田中村教育会長であり村長であった渡辺圓三が寄せていますが、彼は伊豆学校で学んだ一人でした。講演録を紐解くと、そこには坦庵が敬慎第一実用専務を掲げ、厳寒に火鉢も近づけず、食事は一汁一菜で、ご馳走は奴豆腐ばかりであったことなどが書かれています。あるいは水戸烈公と呼ばれた徳川斉昭と抗論したことや、勘定奉行の川路聖謨と激論したことも書かれ、英武生前の坦庵のエピソードが語られています。また反射炉の築造は至誠の賜物まで言及しました。
 おそらく幼少時から柏木忠俊あたりから聞かされてきたのでしょう。坦庵会等が結成されていますが、英武は坦庵の研究者であり、親子関係ではなく公人として坦庵を顕彰したことは評価できると思います。
 近年の韮高生は1年生になった4月の遠足で坦庵公の墓参りをしているようですが、以前は1月16日の命日に本立寺に足を運んだものでした。今年は没後160年目にあたります。



第34話 韮高修学旅行今昔

2014/10/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 10月を過ぎると修学旅行を行う高校が少しずつ出てきます。韮山高校では例年11月前半に2年生を対象に、長崎・熊本といった九州方面の旅行が企画されています。小生が在学していた頃は京都・奈良というお決まりのコースで、中学校時代とあまり変わりばえしませんでした。今は3泊4日ですが、小生の頃は4泊5日でした。
 そもそも修学旅行はいつ頃始まったかというと、明治25年(1892)に文部省で修学旅行奨励の訓令が文部大臣から出されています。
 しかし精神鍛錬の軍隊式だったためなかなか浸透しなかったようで、明治34年(1901)頃から方針を変えて現在のような形になったといわれています。
 本校はこの面では先進的で、県立移管した明治30年(1897)年11月に3泊4日で箱根・小田原コースの修学旅行を行っています。これは『韮山中学校学友会報』に「修学旅行日誌」として残されています。
 旧制韮山中学校初代校長の小永井校長を総監として、中隊長に小松少尉を据えて生徒149人、職員11人の規模で11月10日の朝出発しています。学校を出発して山中城まで歩き、そこから箱根路を歩き、箱根神社を参拝しています。箱根に1泊し、翌朝熱湯の湧き出る小湧谷を歩き、箱根湯本を通り、早雲寺に立ち寄りました。その後早川を抜け、小田原城に到着します。その日は小田原に1泊しています。
 次の日朝、小田原を出発し、根府川を通り、熱海の伊豆山に着き、そこの尋常小学校生徒たちの出迎えを受けています。そしてそのまま熱海に宿泊しました。
 最終日は朝伊豆山神社を詣で、ここで北条政子関係の宝物を拝観しています。伊豆山から日金山へ登り、軽井沢へ下り、平井を抜けて夕方5時に学校に到着しました。
 全行程で歩いた距離は約96キロで、1日平均24キロほどでした。精神鍛錬もありましたが、韮山高校ゆかりの中世の歴史を学ぶ機会にもなっていたようです。それは北条早雲関係で、小田原城や山中城をはじめとする後北条家を辿るコースでもありました。以前もお話したように早雲は龍城山の韮山城を築城して、今の志龍講堂あたりに位置するお屋敷で亡くなっていますから、当時の生徒たちにとって歴史を体感する機会でもありました。
 何かの機会で、こうした歴史コースをウォーキングすることを企画しても面白いかもしれません。


 第33話 韮山高校と慶応大学

2014/08/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 韮山高校から大学に進学する生徒たちは例年ほぼ100%であると思います。
 世間では大抵が東京大学何人、京都大学何人…という言い方で高校の格付けをするようで、実際に週刊誌等では学校ランキング付けとして、一流大学の紹介には旧帝国大学をはじめとして私立の早慶上智、そして医大の名が挙げられるようです。
 世間に出れば関係ないと思うのですが、学閥なる言葉や同窓会の類はよく耳にしたりします。
 さて皆さんは韮山高校が慶応大学と関係が深いことをご存知でしょうか。慶応義塾大学はご存知一万円札の方が創立者ですが、以前このシリーズの最初の頃に福沢諭吉が坦庵公の薄着を真似したことを紹介したと思います。諭吉と一番関係深いのは本校創立者である柏木忠俊でしょう。おそらく両者は幕末長崎で出会っていたはずです。
 さて、諭吉が芝新銭座有馬家中屋敷を購入したのが慶応3年(1868)12月25日のことでした。すなわち慶応義塾の校舎にあたります。その2年後の暮に彼の出身の中津藩邸が類焼したため返却を求められたため、明治3年9月に隣接する江川家長屋敷を借りて塾を続行していったのです。この屋敷門こそ今日の江川邸の玄関門です。この手続きに柏木が一役買ったのでした。
 そして福沢は『英国議事院談』を訳し、忠俊に送ります。これこそ忠俊の韮山県・足柄県政の鍵となる本(バイブル)で、忠俊は議会を開設し、県下の各地域の 要求や意見を県政に生かそうと代議制を採用します。こうして伊豆の民衆の知識水準、政治意識を高めていったのでした。伊豆学校(韮山高校前身)卒業生は小田原の英学塾で学び、そうして慶応義塾に進んだのでした。英学者仁田桂次郎はこの流れで進んだ一人です。
 また、函南町大竹出身の田中鳥雄の子息萃一郎(1873~1923)は慶応義塾で学び、一旦は伊豆学校校長心得で韮山の地を踏みますが、再び慶応義塾に戻り史学科を創設します。
 おそらく今日、慶応大学の指定校推薦枠はあろうかと思いますが、長い歴史をみれば10人ぐらいは指定枠で入学させてもらってもいいのではと考える次第です。高校大学連携校として当然認められるべき歴史は刻んでいると思うんですがいかがでしょう。


第32話 英語教育(英学)と伊豆学校

2014/06/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 韮山高校が火災に遭ったのは明治13年(1880)5月と、昭和34年(1959)2月の2回ほどあります。このうち、前者においては校舎が全焼したために龍城小学校(現韮山小学校)の一部を借りて授業を行ったとのことですが、さて新校舎をどこに再建するかでは議論されたようでした。一つは現在地、そして三島と大仁がそれぞれ候補となり、最終的には現在地に落ち着き、それが龍城山三の丸、すなわち現在のソフトテニスコート場でした。
 この新校舎が竣工したのが、明治15年(1882)6月ですから、今から132年前のことになります。この年の暮れには校名を町村立中学伊豆学校としました。
 4年後には、町村立伊豆学校とし、英語・数学・漢学の3学科を設置し、英学専修科を設けて本格的な英語教育を始めたのです。この年、すなわち明治19年(1886)はどのような年だったでしょうか。それは鹿鳴館時代の後期で欧化政策がとられ英語教育が推進された時代で、三島には薔花(バラ)女学校が設立した時代でもありました。
 明治21年(1888)1月に開校した私立伊豆学校では江川英武校長自らが英学を教えたとのことですが、それ以前の段階で英語教育が推進されていたことは注目されることでしょう。
 近年といいますか最近はグローバル教育の推進のもと、英語教育が推進され小学校でも英語を学ぼうという時代になっていますが、行き着く先は会話力の向上により、英語での日常会話が流暢にこなせることが目標となってきているようです。
 当時は会話能力を求めるよりもむしろ、英語読解力を高めることに主眼が置かれ、他教科も横断的に英書を読んで数学を解いたり、理科を学んだりしたようでした。英学専修科とはまさにそのコース制を取り入れたものでしょう。
 この英学専修科は小田原にもあり、ここを経由して慶応義塾で英学を究めるのが一つのパターンだったようです。田方農林学校設置者の仁田大八郎の叔父にあたる仁田桂次郎はこうした経歴で学んだ一人で、後に「新策」と題して英学の重要性を私立伊豆学校に提言しています。
 小生は英語ができなくて一浪を余儀なくされた一人ですが、後年海外へ行って英会話の重要性を身をもって知りましたので、スピードラーニングとまではいきませんが、英会話は今も必要かなと思う次第です。


 
 
第31話 担庵公と二宮尊徳

2014/04/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 坦庵公が質素倹約を旨としていたことは、よく知られています。屋敷の畳はすりきれてぼろぼろであったとか、衣服も木綿で、食事も一汁一菜であったといいます。
 これは以前にもお伝えしましたが、冬場は袷(あわせ)1枚で過ごして、火鉢を使わなかったということで、当時中津藩(大分県)の少年福沢諭吉が、それに挑戦したことがあったくらいでした。
 その根底には二宮尊徳(1787~1856)の報徳思想が入っていたと思います。報徳思想には勤労や分度というのがあり、これは勤労することで日常のすべての行動が誠の状態から行われるため、当然それが消費活動にも現れることになります。そして無駄がなくなり、贅沢を自ずから慎むようになる。これが分度と呼ばれます。つまり、分度とはけちをすることではなく、至誠から勤労した結果として自然と使わざるをえないものができ、他のものは残すということを意味します。
 少々哲学的な表現になりましたが、剰余したものは貯蓄をしていくという、このサイクルを尊徳は頑なに守りらせました。おかげで尊徳の指導した地域はどこも必ず財政が安定することから、彼は各藩からひっぱりだことなったのです。
 坦庵公も韮山の多田家の借財整理に頭を悩まし、さっそく尊徳公にお願いし、天保11年(1840)に初めて尊徳公は静岡県の地に足を踏み入れ、多田家を指導したのでした。報徳のメッカである大日本報徳社の本部は掛川市にあり、ここでは岡田佐平次が尊徳公に師事し、報徳精神を同地にもたらしたのですが、尊徳公本人は掛川には訪れていません。唯一訪れたのが韮山の地だけなのです。
 しかし、坦庵公は倹約と吝嗇(けち)とは区別していました。1850年にイギリスのマリーナ号が下田港に入港してきた時には、高価な蜀江の錦の袴を新調して対応したといいます。
 よく本当の金持ちは、普段はつつましく、いざという時には大金を出すといいますが、まさにそれに近い形かもしれません。
 坦庵公はこうして民生を安定させたことで、「江川大明神」と呼ばれたりしましたが、贅沢になれきってしまった方は是非参考にしていただきたいと思います。


 
第30話 担庵公胸像の歴史

2014/02/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
  

 韮山高校の校門をくぐって校舎側へ行かず、左の体育館入口の方へ歩いて行くと坦庵公の胸像が立っています。本校の創立者というよりも学祖様ですので、多少なりともそこに刻まれている文章は読んでおいてもいいでしょう。次のように書かれています。
 
 江川太郎左衛門英龍先生資性英邁人格高潔邦家至寳之偉人矣以憂國濟世之至誠夙究東西學術之深奥而施諸普一般即自兵制鑄砲外交海防至教育医術悉為時代開拓之先陣矣寔當時一方之長城也其為代官也質素剛健中正公平勤勉自疆以躬垂範徳化洽於郷國可謂治國經世之亀鑑也亦復孝忠之心殊敦厚虔々敬神帰依佛法深信其師敬愛無變其意志強毅學不倦行不懈孜々烈々忍持久々精勵惟勤可謂亦教學修養之良師也本校十五回卒業生佐野忠司君寄附建設本胸像及竣工陳所懐曰供母校生徒諸君之教養文部大臣   以為美舉題字之諸子斯幸接其英姿當得薫染感化美嗣偉人也
昭和十四年一月 静岡縣立韮山中學校長山本幸雄撰 同教師彦坂繁三郎書
 
 文部大臣の名前がありませんが、おそらく荒木貞夫ではないでしょうか。
 この胸像は昭和14年1月16日の坦庵公命日に除幕式が行われ、澤田政廣による作品でした。台座は第27回目で述べた労作教育の作品です。胸像寄贈者は佐野美術館を創立した佐野隆一の弟の忠司で、二人とも本校で学んでいますが、隆一は野村証券の前身の大坂屋証券の専務取締役を務めた人物でした。
 ところが戦時中に銅像等の非常回収により坦庵公胸像は供出されてしまいます。戦後再び澤田政廣の手により胸像が彫られ、昭和28年6月7日に除幕式が行われました。澤田政廣は本校で学び文化勲章を受賞した有名な芸術家です。
蓮池の周りには他にも開学百年碑や講道館韮山分場の碑など幾つか碑が立っています。
なかなか気付きませんが、意外な歴史が潜んでいたりします。


第29話 担庵命日

2013/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 江川坦庵公が亡くなられて160年近くたちます。亡くなられたのは安政2(1855)年1月16日のことです。しかしこれは旧暦ですので、新暦では3月4日となります。この頃は高校入試の頃ですから、大変冷え込む時期です。
 若い頃から剣道をはじめとして、山猟など猛訓練をして体を鍛えてきたのですが、何しろこの時期あまりにハードスケジュールでした。ペリー来航はこれより1年半ほど前になりますが、かねてから海防について幕府に建議していましたので、すぐに勘定吟味役に引き立てられ、幕府政治に参画するように要請されます。
 そこで江戸と韮山を行ったり来たりしますが、翌年1月再びペリーが来航します。あまりの多忙で3月には江戸城で頭痛に襲われ、その月は病臥しています。5月にも同様の症状がみられ、そんな中で今度はロシアからプチャーチンが来航します。
 ところがその年の11月に安政の大地震が起き、プチャーチンの乗るディアナ号は船底を大破します。修理のため戸田へ出帆している途中富士で座礁し、今度はロシア船建造ということになりました。
 これら陣頭指揮やら調査やらで下田へ行ったり戸田へ行ったりするわけです。さすがに12月には風邪でダウンしてしまいます。かなり重症なのですが、その状況を幕府は知ってかしらずか、江戸へ来るようにとの連絡が入り、生真面目な坦庵は出かけるのです。
 家臣が止めるのもきかず韮山を出発しますが、当然のことながら小田原で風邪が悪化し、江戸に着くや寝たきりとなりました。
 体が弱まっている時の風邪ですから、おそらく今でいうインフルエンザに近い症状で、肺炎も併発したようです。こうした中で坦庵公は正月を超えて亡くなられました。
 時の筆頭老中であった阿部正弘は大変悲嘆し、次の歌を詠みます。
  空蝉は限りこそあれ真心にたてし勲は世々に朽せし
 坦庵の柩は25日に到着し、菩提寺の本立寺に葬られたのでした。
 小生が在学中は、1月16日近辺のLHRの授業中にお墓参りに行った記憶がありますが、最近は1年生の春の遠足の時にお墓参りをしているようです。
 改めて坦庵公に合掌です。