HISTORY

第78話 穂積忠と韮山中学校恩師

 

2021/7/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
vol78

 本校校歌を作詞した穂積忠先生については、当メルマガの19話と39、40話でお伝えしているところですが、穂積先生を歌の世界に引き込んだ加藤丈夫先生を知っておく必要があるでしょう。まず大正6年(1917)3月に『学友会報』第20号が刊行されています。この号で多くの短歌を寄せているのが英語教員の加藤在巣とその時の生徒であった穂積茅愁です。穂積茅愁こそ本校校歌を作詞した歌人穂積忠のことです。在巣とは歌号(雅号)で、北原白秋の弟が創立した社名「アルス」から引用してのことでしょう。アルスとはラテン語で芸術を意味する言葉です。
 加藤先生は大正2年4月に韮山中学校に英語の教員として赴任します。英語の教員でしたが、歌の世界では既に北原白秋先生に弟子入りしていて、韮山山木の居住する家を炷薫草盧と呼び歌作に耽っていました。その翌年穂積先生が生徒として入学してきます。加藤先生を縁として穂積先生はその後の半生を白秋の一番弟子として学生生活をおくることになります。歌集『雪祭』「巻のすゑに」の中に穂積先生は次のように書いています。
  ……たしか二年の二学期と思ふが、土岐哀果氏の歌集『泣きわらひ』?を読んでゐると、英語の教師の加藤丈夫先生がそれをみて、「君は歌が好きか、好きなら僕の家へ遊びに来い、教えへてやらう」と言はれた。早速放課後うかがふと、雑誌『ARS』を示され、『桐の花』をかして下さって、歌は白秋にかぎる。僕は白秋の弟子だ。君も一心に勉強するなら、巡礼詩社にも紹介しようと言はれた。それからは、毎日のやうに先生のお宅に伺って熱心に歌を教へていただいた。……
 『学友会報』第20号に一番多くの短歌を寄せているのが、英語教員の加藤在巣と生徒の穂積忠でした。加藤先生は「沙金鈔(百首)」と題し、韮山春愁や香山寺春暁夢などを詠み、穂積生徒は「寂しき世界」と題して詠んでいますが、まさに師弟の独断場でした。他の生徒たちから二人はどのように映ったのでしょうか。
 しかしながら加藤先生は大正6年9月に病に倒れてしまい、大正7年1月に逝去します。肺病ですから結核ですね。この時代は死の病と言われた病気です。この時の様子を穂積先生は『学友会報』第22号の中で「加藤先生を悼む」と題して追悼文を寄せます。
 私は生れて以来数知れず人の死には逢ひもしまた聞もした。そしてその度ごとに悲しみ愁へまた嘆きもした。しかし私の心に此の二三年間の「死」の報知の内で最も悲嘆と苦悩の跡を長く心に止めたは加藤先生の死であった。
 これは一部で、延々と続きます。さらに次の歌を詠みました。
 
  疾風(はやち)吹く深夜の出湯に身をひぢて 思へば人ははるかなるかも。
  離(か)れ住めば心もとなし天城根に 夕居る雲の凝りて動かず。
 
 実は穂積先生も後を追うように体調を崩して微熱のとれない日々が続き、このため大正6年度つまり先生にとって中学校5年次は休学を余儀なくされてしまうのです。そして穂積先生は大正7年度に復学し、大正8年3月に卒業していくのです。悲しみの中に大正期の師弟愛を垣間見た気がします。
 
 
 

第77話 名物漢文教師~堀捨次郎先生

 

2021/6/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
vol77

 本校の大正時代の名物教師とよく知られているのが、美術の彦坂繁三郎先生と漢文の堀捨次郎(1862~1944)先生でしょう。彦坂先生については第50話でお伝えしたところですが、明治後期から大正初期にかけて教えた生徒たちが、美術界を席巻するような芸術家たちに育てたというから凄いものです。一生を旧制韮山中学校に捧げたといってもいいでしょう。
 一方、堀先生は彦坂先生より10年以上遅れて本校に赴任しましたが、大正時代から昭和初期にかけて、漢学を中心として学問の厳しさを教えた方であります。
 堀先生は奥州二本松出身で、儒家の家で生まれたといいますから漢文は筋金入りです。文久2年(1862)生まれは彦坂先生より一回り上で、明治20年、(東京)帝国大学古典講習科漢書科を卒業し、1年半ほど学習院で雇教員(助教授扱)に就き、三重県や兵庫県の中学校を歴任した後、明治44年に本校に赴任しています。
 本校卒業生で後援会理事長だった故渡辺光男氏(中35回卒)は、「小さな躰をいつも変わらぬ簡素な詰襟の服に包んでは居るが、凛々とした気品の溢れる白髪の」と評し、「生徒の間では、乃木大将と衝突して、学習院を飛び出した日本一の漢学者であると畏敬されて居ましたが、貴族的な近寄り難いところがありました」と述懐しています。渡辺光男氏は本校の有名な故渡辺藤男校長のお兄さんです。実際の話では、学習院で教えていたとはいえ、乃木希典の在任とは時期が違うため、あくまでも当時の生徒間の伝聞であったということですが、堀先生の学識や雰囲気からさもありなんというところです。
 例えば、有慶館が落成した時も(大正時代の話ですが)、
  東海日出域、鴻荒雖邈焉、書契記紀在、暦数過二千、皇孫降臨跡、紳武東征年、
  發詳殊虞夏、卓絶堪與間、天壌無窮勅、偉哉一系傳、萬古鎹劍璽、猶視祖宗然、
  今茲嘉穀熟、登極鳳儀新、瑞雲曳靉靆、佳氣起氤氳、聖上重孝敬、享祀致吉蠲、
  簪紱侍金闕、節旄朝紫宸、鴻立皆踧踖、萬歳賀聯緜、睿明配日月、覆載媲乾坤、
  允武蒼碣刻、允文玉牒刊、明治中興政、兵馬收大権、封建歸一統、言路開四門、
  包容八洲外、遐裔庶物蕃、丕績今承継、鴻基磐石安、輔弼伊傳徳、股肱周召賢、
  藩翰有軍旅、大賓有黎元、一朝図歩艱、可以濟大川、經營考斯館、所以紀佳辰、
  乃命日有慶、取之呂刑篇、内外絶覬覦、寳祚九五尊、兆民孰不頼、湛々泪露恩、
  於此時繙書、於此自加鞭、處治買牛犢、處亂荷戈鋌、落々分玉碎、碌々耻瓦全、
  一心風霜厲、四海金湯堅、忠孝祖宗訓、造次必勿諼、盛事何以頌.微誠比獻芹、
 なんて漢詩を寄せてますけど、意味わかりますか?漢字だらけで凄いでしょ。
 堀先生は昭和8年に70歳で退職されましたが、校歌を作詞した穂積忠先生は堀先生に教わって、かつ同僚にもなっているわけで、漢詩集『松苑詩騰』を校閲して出版に尽力しています。おっかない先生だったらしく、授業をさぼった生徒には「この卑劣漢奴」と言ったらしいですから、穂積先生もおっかなびっくりまとめてくれたんじゃないでしょうか。
アカデミックな韮山高校を思わせる名物先生でした。
 
 
 

第76話 韮山高校のボート部

 

2021/5/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 

 小生の娘が10年近く前に韮山高校でお世話になっていた時の修学旅行先は九州でした。長崎・鹿児島のコースで、その途中熊本でラフティングに興じています。11月の時期でしたので大層寒かったと聞いています。
 ラフティングまでいかずとも、ボートを漕ぐことも実は明治時代にはやっていました。つまりボート部があったんです。沼津東高校や沼津工業高校にボート部があったような気がしますが、狩野川を利用するという地の利を生かせるからでしょう。
 本校においては明治31年(1898)のことになりますが、年度初めに旧制韮山中学校では学友会予算で端艇(ボート)2艘を入荷し、端艇競技は「堀江栄太郎氏河岸ニ定繋ス」とあることから、現在の狩野川に架かる松原橋下流(原木付近)で行われたようです。購入した2艘にはそれぞれ「狩野」「蛭島」と命名されました。この年の6月4日、16日に狩野川で進水した時の状況が書かれているので紹介してみたいと思います。
  一行は五年級生徒、十余名にして、福井教諭、監督として、又此中に加はる。霖雨濛々として、白靄河面を掩へども屈せず。奮勉努力、流を泝ること、二里許、天野堰下に至る。雨は彌ふり来り、衣は盆ぬれまりぬ。途上の困難云はずもがな。溶々汀渚に繋きて、上陸し、上流を望むに、河幅廣濶、溶々乎として、急淵なく、採艇に自由なる状景、羨むに堪えたり。然れども、如何せむ。艇を上流に浮べんには、岩石の嵓乎たる、水勢の滔々たる。邊を溯らざる可らず。且日黄昏に近く、艇員叉少ければ、望唯切にして、舉空しく巳みぬ.帰らんとするとき、狩野号叉校友十余名を載して、後より来り、瞬く間に艇を堰上に浮べ、「オール」揃へて、漕ぎ行く樣、甚勇壮なり。羨望少時、蛭島は先帰途を取る。待つこと半時余にして、狩野号又帰泊しぬ。これ其第一遠征なり。同月十六日、又五年級生徒十七名二隻に分乗し、下流に向ひて発す。時に午後一時三十分なり。中里の急湍以下は、河幅弘大に、水勢又漸く緩慢なり。両々相和し、双々相競て下る間に、徳倉橋、御園橋等を夢寝の間に経、四時頃、山が下に至る。黄瀬川、こゝに合し、訶幅数町、水は汨々として碧を疊み、翠を湛え、両岸の山容樹影、倒に落て、書図を涵す。境已に幽、身亦俗塵の中にあらず。艇を縁蔭に止めて、下流を窺ふ。下流は、所謂大滝と云ひ、怪巖奇石、欹立して、水勢頗迅急なり。其轟に、百雪の俄に鳴るが如く、其勢は鉄騎を走らすに似たり。下らん乎、船を破砕するの恐なるを如何せむ。帰らん乎、時尚早うして、清遊の快を全うし能はぎるを如何せん。衆議為に容易に决せず。議論百出、論難紛々たるの後、漸く下る事と定まりぬ。茲に於て、蛭島を傍の水涯に繋置し、狩野号一隻にて赴かんとす。先艇を抬て、木片を下に敷き、衆搖曳して、之を降下すること十問余、漸くにして、深淵に出るを得たり。歓声喜語の中に、黒手橋、湊橋等を潜過して、沼津町に入る。上陸して、休憩すること、……
 両日とも悪戦苦闘しながら狩野川を漕いでいた様子が窺えます。ボート管理は学校存続に寄与した当時の韮山村長の堀江栄太郎が行いました。ボート部への支援は学友会から10年ほど出資されていましたが、その後サッカー部あたりにとってかわられます。本校にもこういった部活動があったことを知ってもらえたらと思いました。
 
 
 

第75話 応援団と応援歌第二

 

2021/4/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
vol75

 本校における応援団の始まりは、大正13年(1924)10月の県下体育大会東部会に端を発します。この少し前に地歴科教諭の福間敏男が競技部応援歌を作詞しています。今日歌われている応援歌第二です。ご存知でしょうか。
  一、龍城山下日は晴れて  闘はんかな時到る
    ローマを偲ぶ健児等は シ鳥虚空を仰ぐごと
    踰躍の思ひにたへがたく  蓋世の意気燃ゆるかな
  二、いざ戦へやわが選手  ルビコン既にあとにあり
    熱血躍る我友の  希望は高しオリンピア
    覇者の冠を戴きて  あゝ敵陣を突かんかな
 ローマやオリンピアの名称が出てきますが、これっていかにも歴史(世界史)の教員が作詞したことを思わせるもので、実際そのとおりなんです。競技部応援歌というのは、つまりは陸上競技部応援歌をさしています。なんだ陸上部の応援歌か~ってことですが、実はそうなんです。応援歌第一を作詞した長徳太郎校長が赴任するのは昭和2年(1927)6月のことですので、第二の方が先に作詞されていたということになります。この順番が逆になったのはわかりません。
 この大会当日までに応援歌ができただけでなく、会場へも全校応援となりましたので、新たに応援団長と副団長3人を選出することになり、ここに韮山中学校応援団が結成されるに至りました。大会は10月5日の日曜日に実施され、陸上競技部員27人が参加しまして、各種目で優勝者を出すなど健闘し、全体2位の成績を残しています。
 『学友会報』第28号には、「応援の立派さは全見物人の注意をひいた」と記していて、続いて「燐としてかがやく我が校の成績は実に立派だった。遺憾なく発揮された韮中の精神は今後後世もこの最初の大会と結びつけられて、いやましに榮かがやいて行くことを希望するのである。」なんて結んでいます。
 その後応援団の存在は紆余曲折して今日に至っています。
 では、長校長が作詞した応援歌第一はどのような歌詞であったかといいますと、
  一、青雲高くいななきて  銀の蹄に風を呼び
    一瞬千里天翔くる  天馬に似たるこの意気や
  二、北溟の波蹴破りて  芙蓉に羽打つ九万里
    月日にせまる鳳の  翼に似たるこの力
  三、意気と力を生命なる  我龍城の健男児
    ただ突き進めましぐらに  栄光永久に我にあり
 これまた競技部応援歌、つまり陸上競技部応援歌だったんですね。陸上競技部ができたのが大正10年ですから、10年間で2つの応援歌がつくられたことになります。驚くのは創部の頃に、NHK大河ドラマ「いだてん」で中村勘九郎が演じた金栗四三が指導に来ていたということです。
 
 
 

第74話 韮高卒業式の歴代総代者

 

2021/3/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
vol74

久保田豊氏

 今年もコロナ禍の中、無事に卒業式を終えることができました。
 さて、総代というものがありまして、これは卒業生代表ということで、戦前の旧制韮山中学校では総代が卒業式で答辞を読んでいました。つまり学業で一番できた人ですね。 

 大正10年(1921)はちょうど今から100年前にあたりますが、この年度の総代は5年生の内野豊さんで、この方が答辞を読みます。内野さんは卒業して第三高等学校、つまり今の京都大学教養学部に進学していきます。そして戦後は第17代韮山村長として地方政治の牽引者となっていきます。この答辞を読む方には優等賞なるものが与えられるのですが、内野さんは優等賞と徳川育英会賞として置時計を受賞されています。徳川育英会って第16代将軍の徳川家達(1863~1940)からのもので、この人誰?っていう方は、つまりまあ第15代将軍だった徳川慶喜の次の人ってことです。凄く時代がかっています。この時4年生として在校生総代が久保田豊さんで、この方が送辞を読みます。
 翌年度はその久保田さんが総代として答辞を読みます。その一部です。


  …人世ノ愛ヲ説キ或ハ炎熱灼クカ如キ日オリンピヤノ勇者ト為リテ我等カ体育ノ増進ヲ図リ或ハ寒気稟烈肌膚ヲ劈ンサクノ日檀上デノモステネスト為リテ我等カ思想ノ善導ニ尽サレシ事ソレ幾何ゾ……欧州大戦乱ハ既ニ全ク終熄セリト雖モ其ノ余波ハ今猶淊々トシテ止ムヘクモアラス

 オリンピヤとかデノモステネスとか世界史の授業用語を駆使しつつ、当時の第一次世界大戦中であることを盛り込んでいます。久保田さんはかなりの文才もあり、演説にも秀でた方でした。さらに久保田さんは内野さん同様に育英会賞を受賞された秀才でもあり、併せて凄いことは剣道の県大会で2年連続個人優勝し、校内体育大会では砲丸投げと円盤投げで優勝するというまさに文武両道を体現するスーパーマンでした。卒業して静岡高等学校に進み、その後東京大学に進学します。戦後間もなく第16代韮山村長となり、久保田さんの後に内野さんが村長を引き継ぎます。すごい豪華リレーです。久保田さんはその後国政に転じて労農党から、やがては社会党から選出されて代議士となっていきます。
 さて、他の総代者では、大正14年度の小川五郎さんが有名でしょう。小川さんは作家高杉一郎(1908~2008)のことで、その年度に行われた創立30周年記念式典の折にも生徒総代として祝辞を読んでいます。この時の祝辞は次のようなものです。


  動搖スル社会ノ上二超然トシテ、我々ノ学舎丿健全ニソシテ着実ニ三十年、更ニ遡レバ五十三年ノ過去ヲ持チマシタ。因縁ノ綱ニ結バレテ我々ノ学舎ニ学バレタ多クノ人々ニハ其ノ生命ヲ繞ツテ不断ノ努力ヲ継続シテ来マシタ。我々ハ現在ヲ踏ミシメテ静ニ過去ヲ顧ル時、ソコニハ先人ノ努力ニ対スル限リ無キ感謝ガアリマス、ヨリ善キ社会創造ノタメササヤカナ努カヲ継続シテ来夕愉悦ガアリマス。回顧ノ眼ヲ未来ニ投ゲル時我々ニハ勇躍ガアリ理想ガアリマス。無尽ノ責任モ映リマス。今日此処ニ挙ゲラルヽ式典ハ永劫ニ続クベキ拡大ノ一課程ノ終結デアリ叉未来ニ向ツテノ我々ノ結束デアリマス。我々ハ今日ノ式典ヲ最モ意義アラシメル卜同時二心カラ其ノ御祝ヒヲ申シマス。   大正十四年十月十七日   韭山中季校生徒総代 小川五郎

 これが中学5年生、今日の高校2年生レベルの文章です。まさに早熟なすごい時代だったんですね。
 
 
 

第73話 韮山高校田舎論

 

2021/2/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
vol73

 旧制韮山中学校の歴史教員を務めた八木昌平(18761964)は、群馬県出身で東京高等師範学校を卒業し、地元の小学校で教えた後、明治38年(1905)から大正8年(1919)まで、本校の教壇に立ちました。実はこの人物、『学友会報』という今日でいうところの『松籟』+『龍城学報』に、韮山の地がいかに田舎であるかについて「本校の創立と韮山の歴史」と題して論説文を書いています。
 まず出だしから、「本校の如く日用品の調達にも事欠くる陬邑なるもの、他に幾何ありや」で始まり、「自白すれば吾人亦最初この地に来り、予想以上に寂寥を感じ、且つ付近の市街地に遠ざかれるにも一驚を喫したりき」と続けています。
 小生は田方平野で育ったので、まったく違和感なく田舎は当たり前で韮山高校で学んだものの、八木先生の出身である群馬とそう変わらないであろうと思うのですが、この後に次のように記しています。
  本県亦静岡以東に一校の開設を必要としたる際に当り、之れを地理上より見るも、特別の便宜多き三島、沼津の市街地に新設せずして、却て昔時の面影なき衰微のこの韮山を指定したる所以は、全くこの地の歴史的思想が、隠然県民の頭脳を支配し、教育地としての韮山の価値大なるを認めたに由らずんばあらず
 と、まとめています。つまり歴史的由来ある故に、この地に学校が存在するのだと言うことです。その歴史とは何かと言うと、
 「今日の如く閑静なる一僻村と化したりといへども、翻て歴史を回想すれば、この地は鎌倉幕府以後半島行政の中心地たりしが如し。中古の初大宝律令の法典完成し地方制度実施せられたる時にありては、三島は国府の所在地となり」と説明し、「この地が曽て伊豆一統治の中心となり、時に関東までを控制したる歴史に顧み、頼朝・早雲・坦庵等の偉績に鑑み、自ら感奮興起するところなからざるべからず」とまとめています。さらには、「田舎者は常に勝利を占めて」と述べて、「藤原氏に代れる平氏は、田舎者なり。平氏に代れる源氏は、亦田舎者なり」なんて田舎者勝ち組的な論評となり、最後には、
  現時田舎者たる吾人、韮山男児、又快ならずや。唯要は志天下国家を忘れず、常に眼を大局に注ぎ、不屈不撓の精神を以て、一意専念着々に我歩武を進むるにあり。時に倦怠の念萌さば、北天を仰ぎて、八面玲瓏の富嶽に対するあり、神州の粋は鐘めてこの山にあれば、凝視数刻にして再筋肉は緊張し油然たる元気の横溢するを覚えん。
 と結んで、冒頭述べていることと180度転換して、韮山の地は歴史的にみると凄い所で、田舎者ほど大業を成すんだとまで言っています。ちょうど本校に勤めて10年たって韮山の良さがわかってきて書いた論説文のようです。あなたわかるのが遅いよと言いたくなりますが、大真面目で書いてある文ですので紹介してみました。
 この八木先生はこの頃『静岡県田方郡誌』の編さんに関わり、郡誌刊行後の大正8年4月に郷里の吾妻郡立実家高等女学校長として転任していきます。以後郷里で過ごし、『群馬県史』編さんに加わるなど、晩年も地方史研究を続けたようです。

第72話 鳥羽・伏見の戦いと柏木忠俊先生

 

2021/1/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
vol72

 今から152年ほど前の正月、鳥羽・伏見の戦いが起きました。
 幕府の旗本であり代官であった江川家は、幕府側について戦うか新政府(朝廷)側について戦うか分かれ、38代当主の江川英武代官も出席し、手代たちが招集され緊急会議が開かれました。この頃、京都町奉行配下の与力や同心の調練教示に派遣されている江川家手代たちから京都の情勢が続々と伝えられ、それら情報を分析すると全国諸家の使者たちが京都に集まって、新政府への恭順を表明していることがわかりました。
 柏木忠俊先生は新政府側への帰順を決断し、翌月英武公と共に東海道鎮撫総督府のある桑名陣営に向いました。当地で対応した参謀はなんと韮山塾で砲術を学んだ長州藩士の木梨精一郎でした。長州藩といえば桂小五郎(木戸孝允、この頃は木戸準一郎と名のっています)が、江川坦庵公の剣道場である練兵館の塾頭であったことから、江川家との繋がりをもっていたことは大きなポイントだったと思います。
 長州藩のボスである桂小五郎こと木戸孝允の尽力で事はうまく運んでいきましたが、江戸詰めの芝新銭座では幕府側についての抗戦派の勢力が強く、柏木先生と並んで有力な手代であった松岡正平の子どもの磐吉や千吉は、幕府海軍でも重要な役割をしていたことから榎本武揚に従っていました。一方で手代の望月大象は柏木先生の方針を知ると、榎本から離れて新政府側につくこととしました。
 さて、問題は新政府側から江川家の武器供出を求められたことです。武器や弾薬の不足がちの新政府側は江川家の大砲や小銃や弾薬が欲しくてたまりません。柏木先生としては治安維持の必要性から簡単には渡すこともできません。ここで木戸孝允の剣道師匠である斎藤弥九郎(坦庵公の家来)に仲介に入っていもらい、木戸孝允を通して武器供出をしなくてすむようにしました。
 この間、柏木先生や英武公は50日ほど京都におりましたが、幕府側だった江川家は裏切ったと新撰組残党やその他面々から、いつ襲撃されるかわからない状況下にあり、護衛についていた手代で剣客であった岡田直臣は二人を守るために安眠できなかったようです。それでも柏木先生は平常どおり寝られるので、肝の坐った方であると周囲は感嘆したとのことです。
 このような柏木先生なので、新政府側から京都に留まるよう命ぜられましたが、英武公を守りたいとの一心で固辞し、岩倉具視の「関東の治安に尽力するよう」との内意を得て、韮山に帰ってくることができました。この後、江川英武公は韮山県知県事(知事)に、柏木先生は大参事として韮山県行政の舵取りをしていきます。
 江川家はいかなる逆境にも耐えて「生き残る」という文字に書かれていない家訓が伝わっているのでしょう。それゆえ後北条家滅亡の後、幕府旗本として存続し、幕末維新も新政府側について、千年近い歴史を作ってきました。柏木先生は坦庵公没後、江川英敏・英武を補佐し、維新時には素早く朝廷に帰属して江川家を守ったのです。
 
 
 

第71話 自由闊達の原点~大正時代

 

2020/11/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
vol70

伊藤校長

 最近は「文武両道」とやたら言いますが、小生の高校時代はそれほど言わなかったように思います。運動部加盟率30%で、文化部の幽霊部員が多かった時代ですから
 それでも「自由」という言葉はよく耳にしました。自由は責任を伴うもので、中学校から高校に入学して大人扱いされているということを実感させるものでした。韮高の伝統とも言うべき自由闊達の校風はいつ頃醸成されてきたのでしょうか。少しそのルーツを探ってみることにしたいと思います。
 明治時代はそれこそ日清・日露戦争で軍事色が強く、文武両道的な校風が強かったといえます。それが大正デモクラシーの時代にどう変化したのでしょう。大正8年(1919)の年は今から百年前の時代です。この年の秋に校長退陣を叫んで4年生生徒48人が龍城山に立て籠る事件が起きています。その年度末に赴任したのが第9代校長の伊藤保三郎先生です。この伊藤校長は本校寮歌を作詞しています。歌唱指導でなぜか一生懸命に覚えたかと思います。口ずさむ中、通して歌えるでしょうか?
 
  箱根足柄 雪消えて  足る日の光 さし来れば
  狩野の大川 悠々と  世は永劫の 春に入る
  小霧流るる 蛭が島  出丸が岡の 夕映に
  燃ゆる錦の 草紅葉  織る五つとせや 旅衣
  昔思えば 韮山は  北溟の海 英雄の
  鵬雛巣立ち するところ  巣籠る吾よ 巣立つ日よ
  憧れ行けば 文の道 武林の奥の 果もなく
  寮の灯の またたきに  故郷偲ぶ 慕雨の魂
  嗚呼蛍雪の 明け暮れて 身に昼錦を 飾る日も
  胸のしらべは 忘れじな 龍城の松の 夜半の音
 
 前回71話で伊藤校長と高杉一郎との関係をお話しましたが、伊藤校長は東京高等師範学校の国文科出身でした。そして伊藤校長は2代目の箕田校長以来久しぶりの本県出身者として校長となったのです。先生は明治8年9月、小笠郡曽我村(現掛川市)の生まれで、静岡県尋常師範学校を卒業して一旦は小学校訓導となりましたが、改めて東京高等師範学校に入学・卒業し、大阪や佐賀県の中学校で教鞭をとった後、浜松中学校、静岡師範学校で教えてきた経歴がありました。
 伊藤校長は大正13年『学友会報第二八号』の巻頭言に、「天下第一校」という第を掲げ、韮山中学校を天下第一の中学校にしたいという高大な目標を提示しています。そのことについて、「吾等が自己を内省して間隙なき己を発見した時に、高遠な理想は践まへた己の脚下に実現する筈である。吾が学校を愛して学校との間に空虚が存しない時に、吾人が吾が唯一の学校なりと信じた時に吾等の学校は吾に取つて天下第一校でなくて何であらう。天下之第一校に学び得る者は天下之第一者であり唯我独尊の境に立ち得るのである。」と書いていまして、伊藤校長は韮山中学校生徒に」母校愛の大切さを説いているのです。
 自由闊達の精神はこのあたりが起源でしょうか。
 
 
 

第70話 高杉一郎と伊藤保三郎校長

 

2020/10/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
vol70

伊藤校長

 第41話にて作家高杉一郎(19082008)について触れましたが、彼が旧制韮山中学校を卒業したのは大正14年度末のことでした。高杉一郎こと、本名小川五郎は旧制韮山中学校創立三十周年記念式典の折に生徒総代として祝辞を読んでいます。当時の『学友会会報』から引用します。
  動搖スル社会ノ上二超然トシテ、我々ノ学舎丿健全ニソシテ着実ニ三十年、更ニ遡レバ五十三年ノ過去ヲ持チマシタ。因縁ノ綱ニ結バレテ我々ノ学舎ニ学バレタ多クノ人々ニハ其ノ生命ヲ繞ツテ不断ノ努力ヲ継続シテ来マシタ。我々ハ現在ヲ踏ミシメテ静ニ過去ヲ顧ル時、ソコニハ先人ノ努力ニ対スル限リ無キ感謝ガアリマス、ヨリ善キ社会創造ノタメササヤカナ努カヲ継続シテ来夕愉悦ガアリマス。回顧ノ眼ヲ未来ニ投ゲル時我々ニハ勇躍ガアリ理想ガアリマス。無尽ノ責任モ映リマス。今日此処ニ挙ゲラルヽ式典ハ永劫ニ続クベキ拡大ノ一課程ノ終結デアリ叉未来ニ向ツテノ我々ノ結束デアリマス。我々ハ今日ノ式典ヲ最モ意義アラシメル卜同時二心カラ其ノ御祝ヒヲ申シマス。   大正十四年十月十七日   韭山中季校生徒総代 小川五郎
 大変格調ある祝辞です。
 高杉は中伊豆町の小川区(現伊豆市)出身ですが、小学校高学年の時、実家近くに巨峰を開発した大井上康が住み始めたことで、彼からフランス語の手ほどきを受けています。旧制韮山中学校へは修善寺まで自転車で行き、そこから駿豆線で韮山駅へ行き、歩いて学校へ通学しました。その中で高杉は著書『征きて還りし兵の記憶』の中に、親子で当時の韮山中学校の校長であった伊藤保三郎と進路相談をしたことを書いています。高杉の父親が小学校の校長をしていた縁もあったようですが、親子で校長室に訪れ、それに対して伊藤校長は生徒の進路について一生懸命に考えています。ちなみに「箱根足柄~♪」で始まる本校寮歌はこの伊藤校長が作詞したものです。伊藤校長はその後静岡中学校の校長として転任していきます。
 そして医者に進ませたい父親と文科に進みたい高杉の話を聴きながら、伊藤校長自身が学んだ東京高等師範学校(その後の東京教育大学)を勧め、英文科を専攻するように助言しました。それにより高杉は東京高等師範学校へ進学していくのです。その後も師弟関係は続き、高杉が東京高等師範学校を卒業する際に、既に静岡中学校の校長に転任していた伊藤はわざわざ東京の下宿を訪ね、就職の世話をします。戦後高杉がシベリア抑留から帰国して静岡駅に着いた時にも出迎えをしているのです。
 高杉は処女作『極光のかげに』でシベリア抑留体験記を出版し、その続編ともいえる『征きて還りし兵の記憶』、『わたしのスターリン体験』といった著書が知られています。このあたりは41話で触れたとおりです。
 特別な関係があったかのかもしれませんが、当時の韮山中学校における校長と生徒のエピソードとして、その後大学教授、あるいは作家として大成していった高杉一郎の原点として押さえておく必要があろうかと思います。

第69話 敬慎第一実用専務

 

2020/8/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
vol69

 新型コロナウイルス感染拡大防止のために、本校校訓「忍」の一文字は在校生にも卒業生にも改めて認識した精神訓育であったかと思いますが、坦庵公が座右の銘にしたといわれる「忍」について、本校で強く言い始めたのはどうやら戦後のようです。戦前の『松籟』や『学友会報』を色々読み漁ってみましたが、あまり「忍」について語られていないんですね。それじゃあ、何が言われていたかというと標題にある「敬慎第一実用専務」という言葉です。このことを息子の江川英武は様々な所で伝えています。
 つまり、何事であれ事をなすには専心専念、一心不乱に行なう姿勢が大切であるということ(「敬慎第一」)。人間の努力には、驚くべく威力が秘められている、と坦庵公は言っています。そして目的とするところを考え、時と場合、周囲の条件を吟味し、最も適当と思われる方法をしぼって用いるべし(「実用専務」)と説いています。続けて言えば、「慎んで常に陰日向なく務め行うことを第一とし、実践を旨とし、人や物、適材を適所に一切を生かしきるようにしなさい」ということです。
 英武は大正8年(1919)3月22日に田中村教育会総会に招かれた際に、「亡父の訓言について」と題し、坦庵公の教訓である敬慎第一実用専務の話をしております。講演が行われた田中尋常高等小学校(現在の大仁小学校)で、時の校長の古見一夫は坦庵公の信奉者であり、命日の1月16日は坦庵祭を行って自ら墓参りをし、毎月16日の日は職員生徒一同が墓のある本立寺の方向に遥拝をするくらいであったので、是非とも英武に話をしてほしかったようです。この時の講演を望月寛一郎(韮高学校医)が筆記し、穂積六亮や渡辺円蔵、原胤麿といった地元の有力者(伊豆学校時代の英武の教え子たち)が資金を提供して、『坦庵先生の敬慎主義』の題名で書籍化しています。
 英武は晩年、坦庵公の顕彰に努めましたが、本人が3歳の時に坦庵公が亡くなっておりますので、実は聞き伝えて自分の父親像を作っていった方です。ですが、そのおかげで坦庵公の評価が色褪せることなく今日に至っているのは英武のおかげでもあります。
 他にも坦庵公信奉者はおりまして、山梨県議会初代議長になった近藤喜則(1832~1901)は坦庵公の影響を受け、もう一つの座右の銘である「敬慎第一実用専務」を自らの規範にしたと言われています。明治維新後、私塾「聴水堂」(その後「蒙軒塾」)を設立して近隣の子弟の教育に努め、地域の発展に尽力した人物で、伊豆学校時代の学校幹事であった近藤(柏木)敏三郎は彼の次男ですし、画家の近藤浩一路は孫にあたります。まあ近藤の出身の南部町(山梨県)は江川家の支配地でしたから、影響を受けやすかったからと言えるでしょうが九州にも似たような方がおります。
 それは旧制八幡中学校(現八幡高校)の初代校長である芹沢政衛が坦庵公に感化されて、「敬慎第一実用専務」を校訓和歌として詠んだと言うのです。韮山反射炉が近代日本への道を切り開くことになったことと芹沢校長の母校が現代の溶鉱炉の製鉄所のもとにあったことも要因といえます(因果はめぐり後年、春の選抜の準々決勝で本校が八幡高校に勝利し、優勝につながったのも凄い縁かと思います)。

第68話 感染症を封じた坦庵公

 

2020/6/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
vol68

 新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大の影響で、4月、5月はどの学校もほとんど休校状態でした。6月から本格的に学校も再開しましたが、第2波、第3波が来るのを怖れて過ごさざるを得ない日々が続きます。ワクチンさえあればというところで、早くコロナウイルスが撲滅してくれないかな~と思います。これまでのウイルス撲滅例は天然痘ですね。種痘によりわが国の天然痘(疱瘡)が撲滅したのは1976(昭和51)年のことです。世界では1980年にWHOが天然痘の世界根絶宣言をしています(人類がウイルスに勝利したのは天然痘だけだといいますが…)。
 近代以前は天然痘ほどおそろしい病気はなかったといいます。遡れば紀元前のエジプトの時代に、ミイラに天然痘の痕があったとされ、かなり以前から世界中で戦ってきたウイルスです。日本には渡来人が持ち込んだといいます。18世紀末のイギリスのエドワード・ジェンナーの牛痘法が流行に歯止めをかけることに成功し、日本では19世紀初めにロシアに拉致された中川五郎治が、種痘をしたのがはじまりとされています。このあたりは作家吉村昭が幾つか書いていますのでお読みいただければと思います。
 さて、伊豆では江川坦庵公が最初に種痘を試みています。嘉永2年(1849)に天然痘が全国的に流行したため、翌年正月に「長男保之丞(英敏)長女卓子ニモ種痘ヲ施シ徒ラニ危ブム農民ノ不安ヲトリ除キ支配地駿豆、甲武、相ニ告諭ヲ発シテ種痘ヲ実施シタ」とあるように、わが子に種痘を施し成功したことで、翌2月に「北江間村、八木弥兵衛長男久作(七才)伊奈彦佐兵衛長男竹藏(七才)青木平七長男徳次郎(八才)ノ三少年ヲ選ビ、江川家抱医師肥田春安ヲ付キ添ワセテ江戸ニ赴カセ、蘭学医伊東玄朴ニヨツテ、日本最初ノ種痘ヲ行ワセタ」とあり、当地に種痘を広めていきました。
 この記念碑が長岡の北江間(伊豆の国市)に建っています。碑文に日本最初と書かれていますが、行政側として最初に試みたという意味あいでしょう。3人のうち2人はその後良好でしたが、残念ながら久作は罹患して亡くなりました。坦庵公はこれを悼み、「遺骸ヲ家臣ノ礼ヲ以ツテ浅草本法寺ノ江川家菩提寺ニ厚ク葬リ、親ノ弥兵衛ヲ表彰シ長百姓上席ニ任ジタ」と手厚く葬っています。
 坦庵公の成功に幕府もこれを認め、安政5年(1858)、伊東玄朴や戸塚静海等によって開設された「お玉が池種痘所」を支援していきます。こうして種痘が少しずつ広められていき、この「お玉が池種痘所」がその後の東京大学医学部になっていきます。坦庵公の影の功績です。
 明治時代になり、明治3年(1870)4月に政府は種痘の奨励を各府藩県に布達し、1909(明治42)年には種痘法が出されて定着して、撲滅に至るのです。
 坦庵公の思いは子孫にも受け継がれ、江川家41代当主であった故江川滉二氏は東京大学医学部名誉教授としてがんの免役細胞治療の研究をされました。これもある意味ではウイルス対策の研究に近いかと思います。
 14の日は種痘記念碑ということで、ジェンナーが種痘を実験した日だということです。
北江間にある種痘記念碑
 

 

 

第67話 憲法学者 杉原泰雄先生

 

2020/5/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
憲法学者 杉原泰雄先生

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、学校は休校となり異常事態となっています。5月のゴールデンウィークもステイホームということで自宅待機しておりました。そうした中で3日の憲法記念日は杉原泰雄先生のことを思い出しました。
 杉原泰雄先生(1930年~)は、本校旧制中学52回卒の日本の法学者です。専門は憲法で一橋大学名誉教授をされています。これまで東北・東京大学教授の樋口陽一などと憲法の国民主権論争を繰り広げてきました。田上穰治ゼミ出身で、一橋大学大学院法学研究科修了後、一橋大学憲法学講座第3代教授を務めました。さらに田上穰治先生自身は三島の出身であり、彼の師匠が天皇機関説の美濃部達吉先生に当たります。つまり杉原先生は美濃部達吉先生の孫弟子ということになります。
 先生の学問の原点は旧制韮山中学3年生の時に、軍需工場へ動員され、空腹の中で「8月15日」を迎え、戦争と平和の問題を考えざるをえなくなったとのことです。
 先生は憲法学者として、通常憲法学の本業と考えられている憲法解釈論にたずさわりながら、同時に憲法の歴史ともかなりの関りを持ち続けるという二足の草鞄をはき続けていきました。先生の書かれた『国民主権の研究一フランス革命における国民主権の成立と構造一』(1971年、岩波書店)や『人民主権の史的展開一民衆の権力原理の成立と展開一』(1978年、岩波書店)、『国民主権と国民代表制』(1983年、有斐閣)、『国民主権の史的展開一人民主権との対抗の中で一』(1985年、岩波書店)は憲法学界よりも、むしろ歴史学の世界において問題提起されてきました。
 先生は学部でも大学院でも歴史研究となるための特別な訓練を受けていないと謙遜されていますが、1950年代初頭に憲法の「法解釈論争」に関わったことから始まったとおっしゃっています。その一つの要因となったことは、政府による憲法の解釈・運用であり、憲法制定時、政府は第9条について自衛戦争を放棄し自衛のための戦力の保持をも禁止するものと解釈していたけれども、憲法施行の3年後には警察予備隊を、5年後には保安隊を、7年後には自衛隊を設けていきました。政府は憲法がそれらを禁止していないと説明しますが、そうじゃないんじゃないかと先生は強く思ったようです。
 憲法解釈論において、実践対象についての科学的認識はとくに重要であって、憲法解釈が憲法典自体においては概念規定をされていない多くの基礎概念(例えば国家・国民主権・立法・行政・司法・戦力・交戦権等々の文言で表現される概念)を前提とし、その上に組み立てられているからであり、憲法解釈の実践性の一つの主要な手掛りはここにあると先生は伝えています。つまり現在の日本はあまりに政治と憲法が離れすぎていて、やはり立憲主義の立場に立つべきとの考えを示しております。
 平成29年の秋、杉原先生には本校で講演をしていただきました。その時に憲法を大事にするよう(考えるよう)生徒たちに時間を延長してまで熱く伝えていました。
 なお、国際法学者で京都大学名誉教授である杉原高嶺先生は実弟とのことで、本校高校12回卒です

 

 

第66話 菅原岩蔵校長と英語教育

 

2020/3/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
菅沼岩蔵肖像

菅沼岩蔵肖像

 菅沼岩蔵と聞いて、誰それ?とおっしゃると思います。この方は旧制韮山中学校3代目の校長さんです。100年以上前の校長先生ですが、実はこの方、森鴎外の小説『渋江抽斎』に登場する人物です。『渋江抽斎』の作品に登場って??となると思いますので、まずはこの作品の中の記載について紹介しましょう。
 作品その百三の文中に、「初め保は母と水木との二人の家族があったのみで、寂しい家庭をなしてゐたが、寄寓を請ふ諸生を、一人容れ、二人容れで、……菅沼岩蔵、……の人人である。……菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にゐる。……」とあります。
 そもそも渋江抽斎(180558)という人物ですが、彼は弘前の医官で考証学者であった方で、森鴎外が「武鑑」収集の途上で抽斎の名に遭遇し心を惹かれ、その事跡から交友関係・趣味・性格・家庭生活・子孫・親戚にいたるまでを克明に調べて、『渋江抽斎』を書いたということです。その息子にあたる渋江保は森鴨外が小説『渋江抽斎』を執筆した際の情報提供者であります。
 菅沼岩蔵(18661944)は渋江抽斎の息子の保(18571930)と関係しております。菅沼自身は湖西市出身で、旧制静岡中学校を卒業した後、英語教諭として県内の静岡師範、浜松中学、静岡各中学校、県外では東京府立一中(現在の日比谷高校)で教壇に立っています。旧制韮山中学校2代目の簑田校長が急逝したため、本校校長に赴任しました。菅沼は渋江保(18571930)が豊川市の宝飯中学校長時代に隠居所としていた長泉寺で寄寓していたこともあり、その縁で渋江家と繋がっています。
 菅沼岩蔵は旧制韮山中学校では明治35(1902)9月から翌年の10月迄の1年ほどしか勤務しておりませんが、『初等英文典』(明治27年刊)や『あけぼの英語入門』や『あけぼの英語カード』等英語関係の多くの著書があります。『初等英文典』(三省堂刊)は中学師範学校用文部省検定教科書として広く普及し、豆陽中(現下田高校)、静岡中(現静岡高校)でも使用され、従来英語のみで記述されていた英文法書に日本語を入れて説明した教科書でした。つまりまあ英語の先生として力量のある方だったということは確かです。
 さらに調べていきますと、渋江保が静岡に転籍した時のことが『渋江抽斎』その百九に「抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡安西一丁目南裏町十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。…」と書かれています。
 実際のところ渋江保は明治18年(188512月~明治23年(1890)3月の間、浜松市天竜区春野町と静岡市に在住しています。一つには英語学者・英語教育者としての渋江の姿があり、もう一つは自由民権運動の啓蒙家としての渋江の姿があります。渋江自身は欧米の書物を翻訳する中で自由民権思想を身につけ、静岡県民に英語教育を施しながら暁鐘新報の主筆として活躍しました。
 明治時代は随分とスケールの大きい時代であったなあという気がします。
 
 
 

 

 

第65話 韮山高校と理科教育

 

2020/1/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
理化学新校舎『松籟 第14号』

理化学新校舎『松籟 第14号』

 韮山高校に理数科が設置されて来年で50年になります。清水東高校がこれより2年ほど早く設置されましたが、今日の県内の高校で理科棟や天文気象台がある学校は大変少なく本校の大きな特色であります。
 ではもともと韮山高校は理数系の学校だったのでしょうか。150年近い歴史を紐解くと、開校当初は教員養成の目的でしたが、そのうちに大学をはじめとする上級学校への進学を目的とする学校となっていきました。それでも伊豆学校の江川英武校長時代は英学中心の文系学校だった時期があります。前回お伝えしたように大正5年(1916)の県内5中学校(静岡、浜松、掛川、沼津、韮山)の学力テストで英語が2番、数学が5番という順位でしたが、いつのまに理数系が強くなってきたのでしょうか。
 実は大正時代に第一次世界大戦がヨーロッパを中心に展開されていた時に、毒ガスや化学兵器が使用され、その影響で国内でも理科教育が推奨されて実験器具等が学校に配備されるようになりました。韮山高校ではこの時期に理科室を整備し、いち早く国の方針に沿った教育を始めています。
 そして昭和7年(1932)に赴任した山本幸雄校長が、「実験」を大変重視しました。この校長については27話の「労作教育」で触れましたが、例の野球部バックネット裏や階段工事を命じた校長です。この方は実験実習を重視し、例えば物理化学の教科方針として、
  一、教室ト実験室トヲ別ニシ且実験室ハ物理実験室トシ各室ノ設備ヲ完成スルコト
  一、教師並ニ生徒実験用器具器械ヲ充実スルコト
  一、助手的補助員ヲ置クコト
  一、教授時間数ヲ増加シ以テ生徒実験字数十分ナラシムルコト
  一、放課後生徒ニ任意ニ実験実習ヲナサシムルコト
  一、教科ニ関連スル説明図表並ニ簡易器械模型等ヲ製作セシムルコト
  一、教材ニ関連スル各種ノ実験ヲ課スルコト
 このように理科教育を推奨し、バレーやバスケットコートの場所に理化学校舎(理科実験室)まで建てたので、それらの活動を山上のテニスコート横に動かすことになってしまいました。戦後バレーがインターハイや国体で活躍できたのは、このお陰かもしれません(既にテニスコートは大正時代に江川家から三の丸をお借りして活動をしていました)。
 さらに「教科労作」といって土曜日の午後に今日の部活動のような活動をさせました。ここでこれまであった理化部以外に新たに金工部と博物部を立ち上げ、生徒に好きな活動をさせました。モーター・電鈴・自動車模型・電磁石・トランス・幻灯画の製作や、自動車模型・感応コイル模型・石膏模型・飛行機模型等の製作、電鋳術の研究等をしています。
 こうした素地が戦後の理科教育にも大きな影響を与えたといえるでしょう。今日の理科棟には化学実験室、物理実験室が2部屋、生物実験室、地学実験室が1部屋ずつあり、二人で1つの実験や一人1台の顕微鏡が装置されています。「実験の韮山」たるルーツは昭和初期の労作教育にあるのかもしれません。

 

 

第64話 ラグビー、英国と韮山高校

 

2019/11/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
第5代校長 末久喜十郎

英国語学研修の韮高生徒たち

 今秋はワールドカップ・ラグビーで国内中が盛り上がりました。これまでラグビーはあまり騒がれていませんでしたが、前回2015年のワールドカップで日本が南アフリカに勝利してから注目され、今回もベスト8進出は日本中が熱狂しました。韮山高校でも昔体育の授業にラグビーがあったことをご存じでしょうか。小生はタックルした際に人差し指を骨折した経験があり、ギプスをして体育の授業に参加しました。
 このラグビーの強い国を見てみますと、ほとんどがイギリス系であることに驚かされます。スコットランドやアイルランドはもちろんですが、かつてのイギリス植民地国がそれに当てはまります。いかにもイギリス発祥であるかを証明しているようなものです。
 そのイギリスと韮山高校の関係は、毎年夏に恒例のイギリス語学研修があります。10日間あまりロンドン市内から車で2時間ほどのボーンマスという所でホームステイをしながら語学研修をし、オックスフォードあたりに行ってアクティビティ活動を行ったりしています。そこで他にもイギリスと関係していないか調べてみました。
 明治時代前半期の江川英武校長はアメリカ仕込みの英語を伊豆学校時代に授業で教えたとありますが、英国とは直接の関係はなかったです。旧制韮山中学校3代目の菅沼岩蔵校長は『初等英文典』(三省堂)を著述した英語教育先覚者の一人で、これは当時の中学師範学校用文部省検定教科書になったということです。
 その後、明治39年(19061224日に、英国陸海軍陸戦隊大尉某氏が来校して講話をしたと『沿革史』に書かれています。大尉某氏とはキャプテン・ホーンのことで、彼は「英国学生の気品」という演題で講演しました。その一部が次のようなものです。
 The principle of an Englishmans Bushido is learnt at school and its chief points are ; never to tell a lie,never to do anything which one would not like other people to see one doing,never to give in even if you are being beaten,always to help the weak and to do to others what you would like then to do to you.
 イギリス人気質も日本人気質に近いように思えますがいかがでしょうか。この時期は日英同盟を結び、日露戦争に勝った頃です。
 卒業生である画家栗原忠二(18861936)がイギリスの風景画家W.ターナーに憧れて渡英したのはこの後の明治45年(1912)のことでした。
 それから現在韮山高校にはALTが来ております。ディランという好青年ですが、彼は南アフリカ出身で、先日のワールドカップで日本に勝って喜んでいました。そのALTの歴史の中でイギリス人シャープ、シェパード、サマヴェルたちが英語教師として大正期に来日しています。大正9年(1920)4月21日、イギリス人教師エーエル・シャープが英語教師として任命されています。ですからこれより少し前の大正5年(1916)に県内5中学校(静岡、浜松、掛川、沼津、韮山)の学力テストを実施した時に英語が2番であったことはなるほどという気がします。文系理系問わず「英語を征するは受験を征する」は、その昔から続いているものですね。

 

 

第63話 皇室と韮山高校

 

2019/9/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 
第5代校長 末久喜十郎

第5代校長 末久喜十郎

 平成から令和となり、また天皇の即位儀礼が行われます。来月22日が即位礼正殿の儀の行われる日となるわけですが、皇室と韮山高校の関係について調べてみました。
 韮山高校関係者に皇室関係者はおりませんが、江川家を通じて皇室対応をした経緯が過去にあります。明治42(1909)2月21日に、幼少期の迪宮(のちの昭和天皇)と淳宮(のちの秩父宮)両殿下が江川邸に御成で来ております。御成とは天皇・皇后や皇太子・皇太子妃以外の皇室者が外出することです。
 この時韮高職員や生徒は韮山村役場前にお迎えに上がり(というか行列したと思いますが)、午後蛭ヶ小島と本校舎内を案内しております。この時は末久喜十郎校長が先導し、教員と生徒は玄関前でお迎えしたとあります。この年は第56話にも述べたように1月16日に坦庵公五十五回忌の追慕会が開催されて、末久校長は寺内正毅陸軍大臣を本校にお迎えしておりますから、2か月続けて肩の凝る仕事をされています。
 さらに4月13日には明治皇后(昭憲皇太后)が江川家へ行啓し、末久校長たちは北條駅(現韮山駅)に出迎えております。この時皇后から金100円を本校に御下賜いただいています。このお金については前回62話でお話したとおり本校の校旗に使われています。末久校長は翌日には皇后陛下が泊まられた沼津御用邸へ足を運び、御下賜へのお礼に行ったとのことです。
 この明治天皇の皇后の夢枕に立っていたというのが坂本龍馬です。日露戦争開戦の直前の頃といいますが、坂本龍馬の評価がようやくここで陽の目をみたということです。
 ちなみに二位の局(大正天皇生母)がある日江川邸を訪ねたところ、当主である江川英武が「我が家は見世物小屋ではない」と言って玄関から上には上げずに追い返したという逸話があるそうですが、証拠資料を目にしておりませんのでなんともいえません。
 さて、翌年の明治43年1月12日には修善寺菊屋旅館別邸に皇孫殿下つまり幼少期の昭和天皇が滞在します。その御機嫌伺いとして久松校長は3人の本校教員を連れて訪問しています。16日は皇孫殿下は沼津御用邸へ行くということで、本校職員生徒は北條駅(現韮山駅)で奉迎送しています。末久校長の風貌はいかにも憲兵のようで、こうした一連の行事に追われたようでした。
 さて、明治天皇が明治45年7月に御不例(貴人が病気になること)が伝えられると校長は三島大社に参拝し、崩御されると天皇遥拝式を挙行しました。これは皇太后の時も同様で、いずれも職員生徒一同が三島駅で御霊柩を奉迎送しております。
 大正時代を経て、昭和5年昭和天皇が地方の民情視察を目的に本県を行幸しました。この年の5月28日に三島通過時に奉迎送し、翌日には静岡練兵場において4、5年生が天皇陛下より御親閲を賜っています。その後昭和2911月6日、天皇陛下行幸につき伊豆長岡駅付近で全校生徒により奉迎しています。まあこんなわけで皇室関係は学校教育に深く浸透していたことがおわかりになろうかと思います
 
 
 

第62話 韮高校旗制定の由来

 

2019/7/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
旧

韮高旧校旗

新

現在の校旗

 韮山高校の校旗を知っていますか?よく入学式や卒業式で檀上に置かれるものです。応援団で掲げているえんじ色の大きな旗とは違います。
 この校旗が作られたのは明治42年(1909)のことですから、かれこれ110年前の話になります。実はこの年の4月13日に明治天皇の奥様である皇后陛下が江川邸を行啓されました。天皇が外出されることを行幸といい、皇后や皇太子が外出されることを行啓といいます。当時の末久喜十郎校長たちは江川邸でお迎えしたとあります。この時に旧制韮山中学校に100円の下賜金が贈られました。当時の銀行員の初任給が40円の頃の相場です。
 そこで教育勅語から「克忠克孝」(克ク忠ニ克ク孝ニ)の四文字を拝借し、県内5中学(韮山、沼津、静岡、掛川、浜松)が1校に統合された静岡県尋常中学校の徽章を真ん中に据えてデザイン化しました。静岡県尋常中学校の徽章は5つのA(アカデミー)の文字を組み合わせたものです。これを東京の三越で作らせたといいます。三越と言えば、普段質素倹約をモットーにしていた江川坦庵公がマリーナ号事件の際、日本橋の越後屋(その後の三越)で最高級の蜀江錦の野袴と陣羽織を求めたと言いますから縁があったのかもしれません。
 そして同年9月3日に李家県知事を講堂に迎えて校旗制定式を挙げています。この時末久校長は、「…明記四字、則臣子之本文、所以忠孝無二致者、之精華而教育之淵源所在」なんて漢文を寄せています。日露戦争後の忠孝の精神が垣間見えますし、「克忠克孝」は戦前の教育の基本概念でもありました。末久校長は坦庵公の「忍」なんて一言も言ってないですね。当時は「敬慎第一実用専務」という坦庵公の言葉の方を皆さんよく使って校訓のようにしていました。
 さて、その後この校旗はしばらく使われていたようでしたが、戦争後は長く倉庫に収められたままだったようです。そこで高校2325回の卒業生の方々の寄附金を基金として同窓会が協力して新たに校旗を作らせました。生地の色は前回同様紫で、静岡県尋常中学校の徽章に代わって本校の校章、すなわち後北条家の家紋である三つ鱗に韮の字を配したものを中心に据えて創立百周年(昭和48年、1973年)に間に合わせました。
 本校のスクールカラーは何色か?という質問をいただきますが、校旗の紫か応援団旗のえんじのいずれかであろうかと思います。
 なお、最初の校旗が制定された明治40年代には同じように校歌も作詞されています。今日の校歌は大正14年制定ですから、それ以前の旧校歌となります。どんな詞かと言いますと、「川の流れや水の色 みがける大和魂の 思ひは高き富士の山 心は清き伊豆の海 箱根おろしに鍛へたる 韮山男子の気風ぞや」といったものです。いかにも伊豆のどこにでもあるような校歌の節を感じますし、女子生徒からみたら何これって感じですね。現在の校歌を作詞した穂積忠先生はこの旧校歌を歌っていると思います。
 
 
 

第61話 県立移管祝賀式と運動会(体育祭)

 

2019/5/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
61

祝賀式体育祭

 第25話でお伝えしたように開校記念日は明治28年(1895)4月15日に当たります。この年は君沢田方郡一町十八ヶ村組合立静岡県尋常中学校韮山分校が開校され、運営は学校組合に委ねられていましたが、県補助は受けたことから静岡県の所管となったことは事実です。このことを記念しての開校記念日かと思います。実際に県立移管となって県立韮山中学校を名乗るのはその3年後の明治31年(1898)のことです。これをもって正式な県立移管となりました。
 この明治31年4月9日はその祝賀式が挙行されました。午前中は第1回韮山中学卒業式、午後は余興として陸上運動会が開催されました。運動会、つまり体育祭ですね。
 当時の『学友会報第3号』(生徒会誌の『松籟』と『龍城論叢』を足して2で割ったようなもの)には、「春風駘蕩、観者の袖を飜す處、衣香扇影満ち、落英繽粉、寒からぬ雪を降す邊、気骨稜々たる健児、戯嬉す。烟火の音は轟々たり。群集の聲は、豗々たり。技者の氣は、凛々たり。喝采の饗は、滔々たり。疑ふらくは、世界の歓楽、一時に此處に集れるなきかを」と書かれており、花火が鳴って村の一大イベントになっていたことが想像されます。最後の一文など随分と大げさな表現です。
 具体的種目として200ヤード競争とか400ヤード競争とか書かれていますが、メートルに換算すればそれぞれ183メートル、366メートルということになります。イギリスの単位であることは注目されますが、日英同盟は1902年ですからそれより少し前のことなので、その理由は今後の宿題です。
 ただ当日はあいにくの春雨が降り始め、残る種目はできなかったようでした。そのためか、翌月14日に春季大運動会を開催しています。今の韮高の龍城祭の体育祭とほぼ時期は一緒です。この日は南條、龍城等の小学生徒数百人見学したようなので、今の韮山南小や韮山小の生徒が集まって見学したのでしょう。祝賀式運動会でできなかった提灯競争やスプーン競争がしっかり競技種目に盛り込まれています。
 では運動会の最初はいつになるのでしょうか。『学友会報第2号』を見ますと、明治301220日に運動会を開催しております。もしかしたらこれが一番初めかもしれません。この日は2学期終業式に当る日で、期末試験が終了し、閉校式を行った後になんと運動会を開催し、夕方4時迄延々とやったようです。
 競技種目はやはり200400ヤード競争をはじめとし、提灯競争や武装競争、障害物競争、二人三脚競争などを実施しています。武装競争というものすごいですね。時間があればベースボールをやりたかったなんて書かれていますから、今日の秋のスポーツ大会の嚆矢ともいえるでしょう。
 県立移管した旧制韮山中学校ですが、当初から運動は盛んであったことが窺えます。そして近くの小学生たちがその様子を見て、田方郡全体に運動会が広まっていったことも事実です。場所は田舎でも地域の教育の中心であったことがこうした行事からも推察されます(江戸時代は代官所、明治当初は県庁所在地でしたから本当は都会かもしれません)。
 
 
 

第60話 北条早雲没後500周年と龍城山

 

2019/3/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
60

 同窓会メルマガの執筆を始めて10年になりました。隔月で書いておりますので年6回のペースで早いもので60話を迎えました。さて、今年は北条早雲(14561519)が亡くなってちょうど500年にあたります。早雲については度々取り上げておりまして、23話で「龍城山と北条早雲」、44話で「後北条家と韮山高校」と書いてまいりましたが、どうして北条早雲がこの韮山の地に築城する気になったのでしょうか。
 小生の知識では15世紀の足利氏の堀越公方の支配の中、北条早雲が登場して堀越御所の足利茶々丸を追い出して伊豆平定をしたという程度でしたが、天城にある狩野城や伊東にある宇佐美城を陥落させながら周囲を固めてきたことはあまり知りませんでした。そして近年の研究で北条早雲の出自が従来のものと大きく違い、身分の高い室町幕府の官僚武士で今川家の客将であったことが判明されてきたことも大きいと思います。
 北条早雲は終生北条を名乗っておりません。彼の名は伊勢新九郎宗瑞(盛時)が正しく、二代目の氏綱から北条を名乗っております。これは44話でお話したとおりです。早雲は今川家家督争いの時の功績で沼津に興国寺城を築城し、ここを根城として伊豆半島に目を向けます。その後2つの地震が彼の運命を変えていきます。
 明応4年(1495)8月15日の地震は相模トラフ地震による津波が発生し、相模湾沿岸は壊滅的被害を受けます。その2年ほど前に早雲は堀越御所を急襲して伊豆進攻を始めておりましたが、この津波被害を受けた宇佐美や小田原に乗り込んでいきます。宇佐美城といえば伊東市宇佐美の留田にその城跡があり、源頼朝家臣である宇佐美祐茂が築造したといわれていますが、この宇佐美氏一族は津波の影響から菩提寺の移転を図ったようで、この地を早雲は救済します。
 さらに明応7年(1498)8月25日、南海トラフ地震による津波が発生し、これは東海道から南海道沖を震源とした巨大地震が発生します。これにより壊滅状態となった伊豆西・南海岸を早雲は救済し、深根城(現下田市)をはじめとする城を落としています。茶々丸の自害はこれより間もなくのことです。
 二度の津波の被災地の支援することで、伊豆の住民たちは早雲を歓迎し、こうした自然災害を逆手にとって早雲は旧来の武将たちを退け、足掛け5年かけて伊豆一円を支配していったのです。こうして早雲は韮山城を新たな居城として、兵士の乱暴狼藉を禁止し、病人を篤く看護する他、領民には重税を廃止して四公六民の租税を定めるなど善政を行っています。これまでは北条早雲が一介の素浪人から戦国大名になったということで、下剋上の始まり、あるいは戦国時代の幕開けとなったとされてきましたが、そもそも、何の実力も無い者が一国の主になる事は非常に困難なわけで、ようやく定説は覆されてきましたが、それでも戦国大名のさきがけの評価は変わらないようです。
 早雲は永正16年(1519)年8月15日(新暦では9月8日)に没しましたので、今年はちょうど没後500年となる年です。地元ではこれを機会にイベントが企画されていまが、韮山高校にとっては運動場みたいな龍城山を大事にしていきたいと思います。

第59話 駅伝と韮高長距離界

 

2018/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
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 いよいよ本校卒業生の近藤秀一選手(東京大学4年)が箱根駅伝に出場とのことですが、その前にビッグニュースが飛び込んできました。去る11月月4日に県高校駅伝大会が袋井エコパスタジアムで実施され、陸上競技部男子が67年ぶりの優勝という快挙を成し遂げました。7人が襷をつないで、4区で小沢大輝選手が先頭に立つや以下の選手がそれを守りぬき7区の大沢健人がゴールしました。
 高校駅伝が始まったのが昭和25年(1950)のことで、第1回大会で韮山高校が県大会で優勝し、続いて第2回も優勝、今回はそれ以来ということです(全国大会では第1回が12位、第2回が17位)。ただ、その頃は大阪を会場に走っていましたので、京都の都大路を走るのは初めてということになります。
 第1回大会の時は、野球部が春の選抜で全国優勝し、バレーボール部が全国高校総体3連覇をした年でもあります。当時の社会情勢として戦後間もない時期で食糧不足の中、韮山の地は芋等で食を支えたという説と今ほど勉強、勉強と言わない時期であったという説と諸説ありますが、スポーツが盛んであったことは事実であろうかと思います。
 陸上競技部は戦前から今日に至るまで個人競技では全国大会に出場してきましたが、団体戦ではそれこそ平成7年(1995)の野球部以来ではないでしょうか。
 さて、本校の長距離といえば今日クロスカントリーと呼んでいるマラソン大会でしょう。その起源は大正3年(1914)に遡ります。ちょうど第1次世界大戦が始まった年で、その年の1030日に、本校を出発して三島大社をゴールとする9キロの長距離競争が行われました。当日は午前7時頃から秋雨が蕭々と振り出し、激しさを増す中、8時4分に号砲が鳴ってスタートしたといいます。生徒は雨中を走り続け、8時40分に先頭ランナーがゴールし、9時50分迄には全員到着したとあります。優勝者は渡辺喜久治氏で、当時彫刻家の澤田政廣も在学しておりましたので、ひょっとしたら走っていたかもしれません。実はこの時は明治天皇崩御の後で、運動会の代わりとして実施したということでした。
 翌年から全国中等学校野球大会(現在の高校野球)が開催されることになり、当時は全国的にもスポーツが奨励された時代でした。本校でも大正時代に陸上競技部、そしてOB会ともなる銀蹄会が誕生し、柔道部や剣道部が全国大会に出場した時期にあたります(剣道部は県大会2連覇)。そういう意味では、今回の駅伝全国大会出場は陸上競技部が創部して100年を祝う記念にもなったということです。
 ちなみに、2年前に本校野球部が創部120年祝いの式典を志龍講堂で行いましたが、120年前はちょうど学友会という、今でいうPTA・後援会組織が立ち上がった時期で、そこで運動部創設の基金が募集され、野球部や剣道部、柔道部、弓道部、ボート部等が次々に創部されました。その時の運動部創設の目的が「学生気質ノ鍛錬ヲ主トス」とありますから、質実剛健の校風をつくるきっかけとなりました。

第58話 米国務長官ノーマン・ミネタと峰田国作

 

2018/11/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
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 韮山高校理数科の修学旅行は例年11月前半にアメリカ西海岸へ行きます。西海岸のカリフォルニア州がコースの中心となり、ロサンゼルス郡のパサディナ市は三島市と姉妹提携都市で、当地在住のブライアン・タケダ氏に旅行手配をお願いしております。
 同じくカリフォルニア州のサンノゼ市に旧制韮山中学校(中9回卒)出身の峰田国作が大正時代に渡米しました。この時代は海外移民がかなり渡米していて清水村(清水町)出身の峰田は現地で一生懸命働きました。峰田は三島出身の渡辺かねと現地で結婚し、三男にノーマン・ミネタ(日本名;峰田良雄、1931~)が生まれています。
 第二次世界大戦中峰田一家は日系人ということで、ワイオミング州ハートマウンテンの日系人強制収容所に3年あまり入れられ、つらい経験をします。大戦後、解放されますが、ノーマン・ミネタは義兄マイク正岡(1915-91)の影響を受けます。マイク正岡は日系アメリカ人市民連盟(JACL)の初代事務局長として、日系人の権利向上のために活動した人物で、彼の運動は1952年6月の「移民帰化法」成立につながり、日系一世の帰化権を得ることに成功しました。
 そしてノーマン・ミネタは1967年にサンノゼ市会議員に当選すると、1970年に39歳にしてサンノゼ市長に当選します。さらには1975年カリフォルニア第13区から立候補し民主党下院議員に当選します。
 アメリカ議会で活動する中、上院議員ダニエル井上らと「日系人補償法」を成立させます。第二次世界大戦中の強制収容所で体験した人権保護の重要性を身をもって体験していたことから、1988年8月この法案は可決され、時のレーガン大統領は謝罪しています。
まさしくそれは、ノーマンの強制収容所での日系人差別から解放された時でした。ノーマンはこの功績により1995年、「マーティンルーサーキングジュニア記念賞」をワシントン大学から表彰されています。
 さらにアジア系初の閣僚として2001年7月、クリントン政権の商務長官に、2001年にはブッシュ政権の運輸長官にそれぞれ就任し、後者においては9月11日の同時多発テロ事件で、全米市場初の全民間航空機着陸を命令し、それと共に自身の収容所差別体験から、テロ疑惑をもたれたイスラム教徒の人権擁護のため、空港のセキリュティーに差別化をさせませんでした。後日、「何千もの旅客機を敏速に安全に着陸させた立役者」とブッシュ大統領は評価しています。
 200111月、サンノゼ市ではノーマンの運輸長官就任を記念して、サンノゼ国際空港を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」と改称し、彼の名を称えました。2006年、5年6か月務めた運輸長官を辞任しましが、これは歴代最長であり、民主党、共和党いずれの政権の閣僚に就任したことは、いかに彼が信頼されたかを物語っています。
 韮山高校出身の父親からこのような日系人が活躍したことを是非知ってもらえればと思いますし、特に理数科の生徒はカリフォルニアで思い出してほしいと思います。

第57話 久保田豊と岩崎光好

 

2018/9/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 今年は狩野川台風があってから60年を迎えます。昭和33年9月26日という日は田方一円の方々にとって永久に忘れることのできない日であると思います。
 伊豆長岡の墹之上の狩野川放水路には当時の記録を残した狩野川記念館が今から20年前に整備されました。その入口横には久保田豊(190565)の胸像が建てられています。この人物をご存じでしょうか。
 略歴をみますと、韮山村原木の生まれで、旧制韮山中学から旧制静岡高校(静岡大)を経て、東京帝国大学法学部で学んだ方です。卒業後田方農業学校(現田方農業高校)の教壇に立つものの、昭和6年の「全農田方事件」に連座して教諭を免職されています。その後満州に渡って昭和17年東満総省寧県長になり、戦後は静岡県韮山村長を2期、日本農民組合委員長に就任し、昭和28年から5期衆議院議員と務めた方です。韮高出身者にしては珍しい経歴の政治家です。
 大変大柄な体格で、韮山中学校時代は剣道の達人として大いに鳴らしたと言いますが、陸上部の砲丸投げにも借り出されて、ここでも記録を出したというスポーツ万能な方でした。一方で文学や芸術を愛し、それこそ素晴らしい絵を描いたといいます。東大時代には、新人会のメンバーとして社会主義理論の研究に精力を注ぎ、そのことがその後の農民運動に影響を与えたといえるでしょう。
 衆議院選挙も労働者農民党から立候補し、その後同党が解答したことから日本社会党から議席を得ています。韮山村長時代に狩野川治水会長として狩野川放水路建設の基礎に関係していたことから狩野川治水組合に引継ぎ、やがて自らが国政に関与することになり、狩野川放水路建設にひと肌脱いだのです。
 この久保田豊と韮山中学校時代の親友が岩崎光好(旧姓酒井、190558)です。彼の略歴は韮山中学校を卒業後幾つかの大学で入退学を繰り返し、昭和3年に沼津日日新聞の記者となります。久保田の影響を受けて社会主義に傾倒し、昭和5年から労働運動の指導者として労働農民党に参加したりして、その当時ですから何度か警察に検挙されたようです。一方の久保田は理論派として陰の存在として君臨していたようですが先述したとおり同時期教員を退職させられます。
 その後転向して沼津で喫茶店の経営者に転じますが、実業之世界社に勤務したり、戦後もローカル新聞を創刊したりしましたが、戦前からの『東静無産運動史』という本を書いております。要するに伊豆の社会主義の運動の歴史を書いたものです。彼の娘が女優の富士真奈美です。富士真奈美は手記の中で、父親が潔癖な人で戦後ヤミ米を買うことを拒否し、時に藤原実定の歌を絶唱する人間だったと書いているが、おそらく純粋に社会主義を考えていたことがわかります。蛇足ながら富士真奈美の前夫の祖母がおなはなんのモデルとなった林ハナです。
 久保田豊も岩崎光好も若くして亡くなりましたが、本校の先輩として合掌したいと思います。

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久保田豊胸像

 
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岩崎光好

第56話 寺内正毅と韮山高校

 

2018/7/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
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 今から100年前の1918(大正7)年は、米騒動があった年です。この時の内閣総理大臣は長州出身の寺内正毅(18521919)でした。山縣有朋のひきで、陸軍大臣になったり朝鮮総督になったりしましたが、総理大臣になれたのも山縣をはじめとする長州閥によるところが大きいでしょう。
 その寺内正毅と韮山高校は大きく関係しています。関係のきっかけは韮山反射炉で、このことは既に3637話でお伝えしているところです。要するに日露戦争勝利により韮山反射炉が見直され、それまで荒れ果てていた反射炉を寺内陸軍大臣が補修してくれたということです。この縁で陸軍大臣寺内正毅閣下が韮山高校に来校したのは明治42年(1909)1月16日のことで、当日は坦庵公五十五回忌の追慕会が本校講堂にて開催されました。もちろんこの日は坦庵公の命日を選んでのものでした。この時の演説草稿が『学友会報第拾参号』に残されています。寺内閣下は演説の中で、韮山反射炉が「本邦ニ於ケル大砲鋳造ノ元祖デアリマス」と述べ、次のように続けています。
  …反射爐ハ其後全ク天然ニ委棄セラレ風雨雪霜ノ為ニ漸次破壊セラルヽノミナラス多数ノ来観者中ニハ好奇心ニ駆ラレテ其煉瓦ヲ抜キ取リテ携ヘ去ル者ナトモアリ若シ此儘ニシテ尚年月ヲ経過スルニ於テハ竟ニハ修繕モ出来難キニ至ルノ恐アリトノ事ナリシニヨリ自分ハ甚タ残念ニ思ヒ遂ニ陸軍ニ於テ之ヲ管理保存スルコトニ決シ昨年以来修繕工事ニ着手セシメ此頃ニ至リテ略其ノ工ヲ竣ツタノテアリマス…
 寺内正毅が陸軍大臣だったのは桂太郎内閣の時代で、日露戦争前後という、まさに日本が世界の大国入りした時と重なります。その後韓国併合後に朝鮮総督府が置かれ、初代朝鮮総督となります。ここでの功績が認められたようで大正5年(1916)に第18代総理大臣となりました。
 風貌といいますか顔がビリケン人形に似ていることからビリケン首相とも呼ばれました。これはそれより8年前にアメリカ人が作成した尖った頭と吊り上がった目が特徴の子どもの姿をした幸運の神の像=ビリケン人形のことで、今も大阪の通天閣にあります。
 そんな寺内内閣も大正7年7月に始まった米騒動で、この頃ロシア革命も重なりシベリア出兵を宣言するのですが、状況はさらに悪化し9月に総辞職することになります。この間、夏の高校野球選手権(当時は旧制中学校時代ですが)も中止することになりました。
 この米騒動は静岡県内では富士あたりまでが被害事件が起きましたが、伊豆ではなかったようです。穏やかな伊豆人なんでしょう。ともあれ、寺内正毅はその翌年亡くなります。在任中既に健康上患っていたようです。そして寺内内閣の次は初の政党内閣を組閣した平民首相原敬が就任することになります。

第55話 韮山塾から文武学校、そして…

 

2018/5/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
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 韮山高校は今年で創立145年ということで150年までいよいよあと5年となりました。明治5年に学制が頒布されて、小学校の教員が必要だろうということで、教員養成所として設立されたのが本校の嚆矢(こうし)と言われていますが、それ以前はどうだったんでしょうか。
 歴史ある学校にさらに箔をつけたい方でしたら、坦庵公の始めた韮山塾にさかのぼってもいいのではないかという方もいらっしゃるかと思います。韮山塾は天保13(1842)9月から嘉永7年(1854)まで坦庵公が他藩の者に対して行った砲術の機関です。
 坦庵公は入門者に砲術を伝授するにあたり、講義で理論を学ぶのはもちろんですが、実地訓練を重視しました。そのため韮山では実際に大砲や小銃を使っての試射が頻繁に行われ、兵糧のためのパンが製造され、訓練のための鋭音号令が考案されたのでした。ここで最初の弟子となったのが佐久間象山ですが、訓練が厳しくて逃げ出したといいます。
 坦庵公没後は場所を江戸屋敷のある芝新銭座大小砲修練場に移し、縄武館として開塾します。ここにも薩摩藩から黒田清隆、大山巌、長州藩から井上馨、鳥尾小弥太といった維新後に名を馳せた志士たちが学びに来ました。
 その後文武学校なるものが江川邸に開校されました。実はあまり知られてないことでしたが、江川文庫古文書史料調査からわかり、先日本校卒業生の樋口雄彦氏(32回)が『幕末の農兵』で紹介しました。
 これによれば、慶應元年(1865)5月3日に文武学校創建発会とあります。江川英武や柏木忠俊をはじめとして50人ほどが参列して開校しています。この中には青野村という南伊豆の方から大野恒右衛門(恒哉)の名前も見えます。この方はその後の豆陽学校(現下田高校)創立にも尽力した人物です。そして地元の金谷の家来も入っております。坦庵公は生前金谷村農民に洋式訓練をしておりまして、ペリー応接時には鉄砲組となった連中です。彼らがその母体となっています。
 校舎は代官屋敷の敷地内に新たに建てられ、そこがこの農兵のための学校のはじまりとなります。砲術や剣術が主であったように思われますが、漢学や算術も盛り込まれていますから、これはまさに学校と呼ぶべき代物です。当時の文章にこう書かれています。「農兵取建陣屋警衛夫是教化ノ為文武学校補理皇漢并洋学等ハ砲術課ノ内ニ籠メ武道ハ砲術槍劔等為相学…」。つまり農兵のために学問も武道も両方学ぶんだと言っています。これを江川英武名義で創設したのです。
 戊辰戦争中はお休みしていたようで、江川英武はこれを維新後も継続させてほしい旨を民部省へお願いしています。こうして韮山県に引き継がれるのですが、明治4年(1871)の廃藩置県が打ち出され、さらには韮山県令であった江川英武が岩倉使節団に同行して米国留学を契機として、文武学校は教育機関としての機能を停止しました。正味4~5年余り続いた農兵学校だったのです。
 この後、学制が布かれて、いよいよ教員養成の仮研究所、すなわち韮山高校が創立の運びとなります。
 
 

 第54話 佐野美術館と韮山高校

 

2018/3/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
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 先月まで佐野美術館で開催されていました「上杉家の名刀と35腰」の展示会は凄い来客者でしたね。上杉謙信系列の上杉家800年の歴史を誇る中での名刀ということで、全国の刀剣マニアの方々が来館されて、長蛇の列をなしていました。
 この佐野美術館と韮山高校は深い関係がありまして、創立者の故佐野隆一氏(18891977)は本校の卒業生(中10回)にあたります。隆一氏は三島に生まれ、旧制韮山中学校で学んだ後、明治43年東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業し、大正14年に鉄興社を創立します。そして日本カーボン㈱、東邦アセチレン㈱等の社長等を歴任し、産業界に大きな功績を残すとともに勲二等瑞宝章を受章しました。わが国の電気化学工業の先覚者といったところでしょうか。三島市においては多額の浄財を寄付し、様々な施設建設などに多大な貢献をして、市の文化の発展に大きく寄与しました。これにより三島市名誉市民となりました。
 その一方で骨とうの収集家でもあり、昭和41(1966)に佐野美術館を設立しました。日本刀・陶磁器・青銅器・金銅仏・銅鏡・能面・絵画・書などの日本・東洋の美術品約2,500点が収蔵されており、特に日本刀のコレクションで知られています。凄いのは国宝である「薙刀 銘備前国長船住人長光造」が所蔵されているということでしょう。
 長光って何者かといいますと、鎌倉時代を代表する備前長船(現在の岡山県)の刀工で、長船派の祖・光忠の子で、大工房の長として活躍し、同時代では在銘作が最も多く残る刀工とのことです。薙刀は鎌倉時代から室町時代にかけて実戦で使われた武道具でしたから、当作品のように保存状態がよいものは非常に珍しいといいます。津山松平家に伝来し、昭和63年に佐藤寛次氏より寄贈されました。
 さて、隆一氏は郷里の三島をこよなく愛したそうで、美術館にある庭園は「隆泉苑」と呼ばれる回遊式の日本庭園で、昭和初期に隆一氏が造らせたもので、湧水が四季変わらず湧いています。ここは平成9年(1997)に、隆泉苑の表門と園内の日本家屋が登録有形文化財に登録されています。
 実は隆一氏の弟の忠司氏も本校卒業生(中15回)で、この方が戦前坦庵公胸像を寄贈しております。忠司氏は旧制韮山中学校卒業後慶応義塾大学で学び、野村商店(野村証券の前身)専務取締役までなり関西財界で活躍した人物です。
兄弟そろってすごいですが、坦庵公胸像は母校生徒のためにと同級生の柏木俊一にお願いしたところ、後輩の澤田政廣が制作したという流れです。戦時中供出され戦後改めて建てられましたが、こうした秘話があったということですね。
 先月は韮高生の生徒会をはじめとする有志が佐野美術館で初めての試みでしたが、ボランティア活動を行ったところです。
 特典として在校生は無料で入館できるとのことです。
 

【関連した内容の紹介】 
第30話 坦庵公胸像の歴史
第52話 澤田政廣と栗原忠二

 第53話 江川家と医学の繋がり

 

2018/1/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
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 韮山高校の学祖である江川坦庵公は、医学との繋がりが大変深い方でした。それは坦庵公の何事にも先進的に取り組む精神があったからといえるでしょう。その一つが我が子へ種痘を試みるなど、西洋医学への強い関心をもっていたことにあります。
 詳しく言うならば、嘉永3年(1850)正月、坦庵公は娘の卓と息子の保之丞(後の英敏)にシーボルトの弟子で蘭方医の伊東玄朴に種痘を成功させ、翌月北江間村の久作、竹蔵、徳次郎の3人の少年を医師肥田春安に付き添わせて伊東玄朴のもとで種痘をさせたのです(久作は病死)。こうして代官領全域に「西洋種痘法の告諭」を発して領民にも実施させたていきます。
 一方伊東玄朴はこのことで名声を博し、それまで漢方医が将軍の信頼を得ていたところに蘭方医としての地位を固めていきます。そして戸塚静海らと安政5年(1858)に神田お玉ヶ池種痘所を設立し、これが東京大学医学部の前身となっていきました。つまり坦庵公が東京大学医学部設立のきっかけを作ったのです。
 江川家41代目にあたる故江川滉二氏は先代の当主でもありましたが、東京大学医学部で学ばれた後、同大学の名誉教授としてがん免疫研究に生涯を捧げます。さらに氏の母親は順天堂病院創設の佐藤家から江川家に嫁いだ系譜にもあたります。
 江川家以外に目を向けますと、明治初期の足柄県時代に柏木忠俊県令が医学を奨励し、そのために井上潔先生を招請し、韮山病院医局長兼医務取締に据えます。井上潔は順天堂病院の佐藤家出身の松本良順に師事して蘭方医学を学んだ人物で、作家井上靖の曽祖父に当たります。このあたりは第48話でもお伝えしましたが、著作の『しろばんば』にも登場するおかの婆さんは井上清先生の妾(愛人)であり、曽祖父について「井上清という人物は松本良順先生に教わり、松本先生は長崎の医学伝習所でオランダ人ポンペに教わったんだよ」とその業績を幼い靖に言い聞かせたといいます。
 さらに井上潔は甥の足立文太郎に期待を寄せ、韮山高校の前身である伊豆学校で学ばせ、足立文太郎は東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)卒業後、解剖学の世界的権威としてその名を馳せ、京都大学医学部教授を務めました。足立文太郎先生の娘ふみさんは井上靖の奥様であります。
 
 最近調べて気づいたのは、韮山高校の初期の韮山講習所時代に望月大象先生という漢学の先生がおられたのですが、彼のお孫さんにあたる望月寛一郎氏が明治8年7月に韮山講習所の最初の卒業生となり、その後東京大学医学部で学び、本校の学校医として戻ってこられたということです。小生が高校生の時は旧伊豆長岡町古奈にある松本病院の先生が校医でしたが、この方も旧制韮山中学校出身で、東北大学医学部で学ばれて地元で開業されておりました。
 そうしてみますと、韮山高校と医学とはかなり深い関係にあることがわかります。

 第52話 澤田政廣と栗原忠二

 

2017/11/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

旧制韮山中学校美術教師彦坂先生の教え子といえば、澤田政廣(18941988)でしょう。信じられない話ですが、澤田政廣は熱海から歩いて韮山まで通学したといいます。ウォーキングじゃあるまいし、雨の日はどうしてたんでしょうか。彦坂先生の影響を受けたのか前回登場した柏木俊一と絵ばかり描いていたため成績は今ひとつだったといいます。大正2年(1913)、旧制韮山中学校を中退し、高村光雲の高弟である山本瑞雲に師事します。
 大正13年(1924)東京美術学校彫刻別科(東京芸術大学)に入学し、木彫の作品により帝展入賞の常連となり、同審査員に就任します。戦後の昭和22年(1947)には日展審査員に、戦後日展運営会参事に就任し、昭和26年には芸術選奨文部大臣賞、さらに日本芸術院賞と立て続けに受賞します。人間実績を積むとどんどん役職が就くようで、昭和33年(1958)に日展評議員、昭和37年日本芸術院会員、日展理事、昭和40年日展常務理事、そして日本彫塑会会長とどんどんこの業界のトップを昇りつめていきます。
 行きつくところとして、昭和48年(1973)文化功労者、1979年には文化勲章受章に至ります。この前年ちょうど有慶館が竣工し、韮山高校に澤田政廣が現れたように思います。仙人のような感じでしたね。ちなみに政廣の代表作といえば、「吉祥天」「大聖不動明王」といった仏像彫刻でした。それから戦前戦後の坦庵公の像です。韮高玄関前の坦庵公をしっかり彫ってくれてあります。
 彦坂先生のもう一人の教え子である栗原忠二(1886-1936)は、三島が生んだ世界的な画家と言えるでしょう。栗原は明治20年に久保町(中央町)の旧家に、栗原宇兵衛の次男として生まれ、旧制韮山中学校を経て、東京・上野の美術学校西洋美術科(東京芸術大学)に入学しました。在学中から傾倒したのは、イギリスの風景画家W.ターナーの画風でした。「月島の月」は、ターナーを意識し、ターナー風の夕陽に取材して、第12回白馬会に出品するために描いた、彼の美校時代の代表作品といえます。
 彼にとって記念すべき作品は、その後、郷里の母校の三島尋常小学校(現南小学校)に寄贈されました。母校の講堂の上から、この絵は何人の卒業生を見てきたことでしょうか。戦後もしばらくの間、小学校の講堂もあったといいますが、現在はどうなんでしょう。
 さて、東京美術学校を明治45年に卒業した栗原は、同年10月にイギリスに渡り、同国画壇の巨匠フランク・ブランキンに師事しました。大正8年には英国王立協会の準会員に推され、ロンドンにアトリエを持って欧州画壇に登場します。外国人としては初めてという栄誉だったそうです。そして12年間の渡欧生活に終止符を打ち帰国します。
 帰国後は、個展の開催、再渡英、帝展出品作品の制作、後進の育成など多忙な作家活動に尽力します。大正15年には英国王立美術協会の正会員となる最高栄誉を受けますが、帰国し、西洋美術の国内のリーダー的存在となり、昭和11年、50年の生涯を閉じました。
 政廣は国内、栗原は海外でそれぞれ名声を博したのでした。龍城山下の芸術家たち、おそるべしですね。

 

第51話 近藤浩一路と柏木俊一
 

 

2017/9/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

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 前回、彦坂繁三郎先生についてお話しましたが、彼の教え子たちはそうそうたる顔ぶれです。近藤浩一路、栗原忠二、柏木俊一、澤田政廣、野口三四郎、和田金剛…。皆さん日展(日本美術展)に入選したり審査員になったり、文化勲章を受章したり…。まさに龍城山下の芸術家たちでした。
 今回はその中で従兄弟同士であった近藤浩一路と柏木俊一に触れたいと思います。
 近藤浩一路(1884~1962)は、水墨画家・漫画家として知られ、浩一路・土筆居・画蟲斉などと号していました。江戸時代に江川家の支配下にあった山梨県南部町の出身で、実業家・教育者の近藤喜則の孫にあたります。
 旧制韮山中学校を卒業し、1910(明治43)年に東京美術学校西洋画科を卒業しています。今の東京芸術大学ですね。学生時代に白馬会に通い洋画家として出発し、藤田嗣治や岡本一平(岡本太郎の父)と交流しました。1915(大正4)年、読売新聞社に入社し、漫画・挿絵を描いています。夏目漱石の小説『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』を漫画にしたことでも知られています。この時期に菊池寛や芥川龍之介らと交友しています。
 その後水墨画に興味を持ち、小川芋銭や川端龍子、森田恒友、山村耕花らの日本画研究団体「珊瑚会」に参加します。横山大観に認められ、1921(大正10)年日本美術院同人となり、水墨画家として再出発しました。翌大正11年のフランス滞在をはじめ、朝鮮、中国を旅行し、洋画的な水墨画法をあみ出しました。フランスではマルローと親交を結んだりしています。
 戦後は東京の巣鴨にアトリエを構え、1959(昭和34)年日展に参加し活動しました。代表作に「鵜飼六題」、「京洛十題」などがあります。
近藤の従弟にあたる柏木俊一(1894~1971)は、洋画家として知られ、本校創立者の柏木忠俊先生のお孫さんにあたります。旧制韮山中学校で彦坂繁三郎と出会い、同時にその後文化勲章を受章する澤田政廣と同窓になります(澤田が後輩)。二人とも絵ばかり描いていて学業成績はふるわなかったといいます。
 卒業後東京で洋画壇の藤島武二、大家岡田三郎助の門下になり、1922(大正11)年、郷里韮山に帰りアトリエを構え、以後、主に伊豆の山や海の風景を描き続けました。
 翌年の大正12年、春陽会の創立とともに第1回春陽展に出品、会に参加します。ここで梅原龍三郎(18881986)と出会い大きな影響を受けます。梅原とは国画創作協会洋画部創立に伴い行動をともにし、国画会として結成されると会員となり活躍し、代表作として「川奈富士と道」「七福神」「山峡」等があります。
 戦後、ルオーに傾倒し作風も変化し、郷土韮山で隠遁しながら富士山を多く描きました。
 二人の作品は韮山高校講堂の1Fで見ることができますが、芸術の秋、芸術の韮山を堪能してください。

 

第50話 韮高芸術の祖、彦坂繁三郎先生 

2017/7/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 韮山高校の歴史を遡っていくと、そこには多くの芸術家を輩出してきたという歴史があると思います。その源流は江川英毅公や坦庵公に辿りつくでしょう。谷文晁との繋がりは大きく、円山応挙の弟子である大国士豊を師としたことや渡辺崋山との交流は、坦庵公の絵画への興味を高めたと思います。
 さて、韮高の歴史の中では本校で40年以上に渡り、美術の教鞭をとられた彦坂繁三郎(18741942)先生の影響は大きかったのではないでしょうか。静岡の士族出身の彦坂先生は明治30年(1897)に韮山高校に赴任するや、多くの芸術家を輩出してきました。
 その授業の基本は「写生」にあり、事物をありのままに写しとることで、デッサン、スケッチとも言われます。これは自らが自発的に見て描くことから、模写(物真似、コピー)ではないということです。彦坂先生は模写をやらずひたすら写生をやらしたということです。実はこれが韮山高校の校風の自主自立の精神にも繋がっているのではないかという気がします。
 彦坂先生は「韮山中学の教育」の中で、「愛を基調として」と題して、「芸術は建設であり、作品は自己の分身である。換言すれば、芸術はその人の形を換えた物といえよう。芸術家が個性の閃によって表現せんとするや愛を基としなければならない。愛があってこそ、そこに熱も生じ、忍耐も生ずるのである。……」と書いています。
 当時「愛」という言葉がこのような形で語られていたのかと思うとともに、強烈な信念のもとに当時の韮高生に美術教育をしていたことがわかります。それゆえ教え子はそうそうたるメンバーで、澤田政廣、近藤浩一郎、栗原忠二、柏木俊一、野口三四郎、和田金剛と綺羅星のごとく著名人の輩出で、彦坂先生の教えの凄さがわかります。
 だいたい大正期を中心に教鞭をとられていますが、韮高生にとって忘れてはいけないのは、現在の校章(当時は帽章)をデザインしたのは他ならぬ彦坂先生でした。これは大正12年(1923)のことで、校歌制定の2年前にあたります。後北条家紋の三つ鱗を背景に、韮の葉を型どったこの校章は100年近くも利用使用されております。
 そしてまた玄関脇にある坦庵公胸像の文字も彦坂先生の字であり、撰文と書家も彦坂先生の名前が刻まれています。彦坂先生は戦時中の昭和17年に亡くなられました。

 
第49話 岡田直臣と伊豆学校
 

2017/5/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

第49話

 江川坦庵公の剣術の師範といえば、練兵館の斎藤弥九郎でしょう。弥九郎は第9話でお話したように神道無念流岡田十松が開く撃剣館の師範代でしたが、独立して練兵館道場を構え、江戸の三大道場として流行らせたのでした。長州藩はこの神道無念流を高く評価し、桂小五郎をはじめとして藩士を送ったので、これを縁として坦庵公と桂小五郎との関係が築かれたといえます。
 弥九郎が世話になった撃剣館の岡田家では、江川家代々家臣である大山寿兵衛の嗣子直臣(18411915)が岡田家を継ぎ、斎藤弥九郎の長女象(さき)を妻としました。岡田直臣は江川家の幕末期の手代として仕え、維新後韮山県の権大属の職に就き、足柄県では11等出仕に補されています。韮山県知県事(県知事)は江川英武でしたし、足柄県令(県知事)は柏木忠俊でしたから、幕末からずっと江川家に仕えていたといっていいでしょう。
 その後明治121879)年3月には君沢田方郡長に任ぜられ、同19年8月迄の7年6か月務めています。この間、田方郡下では貧民党事件をはじめとした政情不安定な時期でしたが、在職中は地域治世を安定させたといいますから、坦庵公の薫陶を受けていたからといえそうです。
 そしてまた、県立韮山中学校は県の財政事情から明治1512月に町村立中学伊豆学校となり、郡長の岡田が校長を兼ねたのでした。韮高の歴史の中で郡長兼校長の時代があったのです。その後一時的に本校を韮山、分校を下田蓮台寺校舎の県立豆陽学校となるも、明治19年に豆陽学校に沼津中学校に統合したため、同年4月に君沢田方郡長の管理下となる町村立伊豆学校が誕生したのです。
 そこにはかつての殿であった江川英武が校長に就任することになりましたので、彼の家臣であった岡田直臣が郡長ですから、書類申請等では校長から郡長へのお伺いとなります。つまりそこには臣下逆転現象が生じてしまったのです。後年英武はかつての家臣への恨みめいた随筆を書いていますが、その胸中はいかばかりだったでしょうか。
 郡長退任後は静岡県庶務課長を拝命し、宮内省御料局に出仕して会計課長を務めます。ずっと官吏つまりはお役人の仕事をしていた方になります。
 晩年は静岡市草深町へ居を定め、直堂と号して書画や詩作に楽しんだということです。
 そのあたりは確か徳川慶喜公も住んでいたような気がしましたが、風流な所なんでしょうか。

 
第48話 足立文太郎と韮山尋常中学校
 

2017/3/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

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旧湯ヶ島小学校にある
足立文太郎先生の顕彰碑

 足立文太郎という人物をご存じでしょうか。戦前解剖医学の権威として京都大学医学部の教授をされた方ですが、作家井上靖の岳父であります。井上靖といえば「しろばんば」の作品がよく知られており、この中におぬい婆さんが出てきます。彼女は井上靖の曽祖父の井上潔の妾にあたるおかの婆さんのことです。
 井上潔とは何者かといいますと、幕末に蘭方医松本良順に師事した医者で、明治初期の足柄県時代の韮山病院院長代理として伊豆医療の先駆をなした方です。晩年は湯ヶ島に隠遁したといいますが、自分の妹の息子である足立文太郎(井上潔の甥)を大変可愛がり、将来の医者にしようと思ったようで、文太郎の親代わりになります。
 そこで文太郎は明治12年(1879)に韮山高校の前身にあたる韮山尋常中学校に入学します。翌年同校が火事に遭ったため、沼津尋常中学校に移って学び、その後上京し東京大学予備門に入り、東京大学医科大学に進みます。
 東京大学では作家星新一の祖父にあたる小金井良精教授に出会い、解剖学の分野に進み、卒業後はドイツのストラスブルク大学に留学します。この大学の近くに住んでいたのが後にランバレネの太陽と呼ばれたシュバイツアー博士(医者、神学者)で、文太郎は当地で博士と親交を深めたのでした。
 明治37年(1904)に帰国した文太郎は、第三高等学校教授をへて京都大学医学部の教授として迎えられ、ここで人体軟部に着目することで軟部人類学の創設者として知られるようになります。筋や小児斑、汗腺、わきがなどについて人種的差異があることを強く主張したのでした。そしてその後大阪高等医専(現大阪大学医学部)初代学長に就きます。白い巨塔ではない時代で、確か漫画家の手塚治虫もここで学んでいます。文太郎の主たる研究成果は、『日本人の動脈系統の研究』『日本人の静脈系統の研究』のドイツ語本や『日本人体質の研究』といった著書が知られているようです。
 文太郎の顕彰碑が今は閉校となった湯ヶ島小学校にあります。この碑に井上靖が揮毫した「懸命不動」の文字が刻まれており、これは座右の銘にした言葉だったといいます。碑文には「…畢生の事業たる日本人体質の研究に没頭、軟部人類学の創設者として、世界の学会に重きをなす。…」とその業績を讃えた文が刻まれています。
 文太郎は靖が将来作家になることを一目で見抜いたと言われ、靖も終生尊敬していたといわれています。そんな足立文太郎先生の学び舎が今日山上コートの場所で、当時はそこに建てられていた校舎で学んだのです。
 伊豆半島の医療は井上潔と足立文太郎先生が原点です。

 
第47話 伊豆学校校長代理田中萃一郎と福沢諭吉
 

2017/2/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

history

 慶応大学と韮山高校の関係については、33話でお伝えしたところですが、福沢諭吉は終生坦庵公を尊敬しておりましたし、柏木忠俊にも著書や訳書を贈っていました。それほど江川家には恩義を感じていたわけですが、田中萃(すい)一郎(一八七三~一九二三)もそんな一人であります。
 田中萃一郎について、どれだけの韮高関係者は知っているでしょうか。明治時代前期に田中鳥雄という函南の大竹村出身の県会議員が国政に打って出て3回ほど代議士を務めた人物がおります。県会議員時代はその豪快な風貌として知られましたが、萃一郎はまさに彼の長男にあたります。経歴では函南尋常小学校卒とありますから、今の函南小学校でしょうか、ここを卒業して上京し慶応義塾に入学します。このあたりは柏木忠俊の影響を受けた父の鳥雄が推したのではないかと思われます。
 慶応義塾大学では史学を専攻し、主に東洋史学の研究に専念します。福沢諭吉もおおいに萃一郎に注目したのでしょう。萃一郎は慶応義塾大学一期の卒業生として、卒業後は地元に帰り、伊豆学校(現韮山高校)の校長心得に就きます。私立伊豆学校は坦庵公の嗣子である英武が校長として設立した中等学校でしたが、経営難で、萃一郎が就任した頃はかなり財政上逼迫していた時期だと思います。それでも『東方近世史』をまとめています。
 数か月後、萃一郎は郷里で腰を落ち着ける暇もないまま、再び福沢諭吉の要請で慶応義塾に戻ってきます。そして明治38年(1905)からイギリス、ドイツ、フランスに留学し、ライプツィヒ大学で高名なカール・ゴットハルト・ランプレヒト博士に師事し、研究を進めます。明治40年(1907)帰国後、明治43年(1910年)に中国の史書を積極的に取り入れて、中国と西洋の史学比較研究を通じて近代歴史学を構築し、慶應義塾大学に史学科を創設するのです。
 萃一郎は東洋史学のみならず西洋史にも造詣が深く、今日で言うところの世界史的な学問体系を唱えた人物で、後の慶応義塾大学塾長となった小泉信三は教え子になります。
 慶応義塾における三田史学会を創設したのは萃一郎その人で、大学では主に東洋史を教授し、大正10年(1921)、は東京商科大学(現一橋大学)で国家学概論も担当しました。日本史学会の雄としてその名が知られるも、大正12年(1923)に新潟県の瀬波温泉で脳溢血のために逝去しました。
 韮山高校と福沢諭吉との関係は校舎だけでなく、教授陣の中にもいたわけで、大変身近に感じる話です。萃一郎の長男の田中和雄氏は函南町長を三期務めておりますし、三男田中荊三は慶応大学文学名誉教授になっていますから、田中家は伊豆と東京とでその後も活躍したことがわかります。



第46話 外交官矢田七太郎

2016/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


外交官

 韮山高校の前身である伊豆学校については以前触れたことがあります。伊豆学校は坦庵公の子息英武氏が校長として勤務され、伊豆半島の俊才たちが学んだことで知られています。当時学んだ学生たちはその後各界で活躍していきましたが、その中の一人に矢田七太郎(1879~1957)という人物がいたことを紹介したいと思います。
 矢田という苗字から旧大仁町の宗光寺出身で、伊豆学校から早稲田中学校へ転校し、帝大(東京大学)に進みます。帝大在学中は坦庵公の研究をし、『幕末之偉人江川坦庵』を上梓しております。序文にこう書いています。
「坦庵公は予が同郷の洗傑なり予も公の郷里に生れ育ち、また令嗣英武氏の創立せる韮山校に学び、先生の感化を受けること少なからず。時代は相隔つとも、予は最も忠実なる先生の弟子の一人なり」
 矢田自身相当に坦庵公を崇拝し、このことが本を書く動機となったようです。そして坦庵公の海防の外交政策に着目し、外交官への道を選択するのです。
 明治40(1907)年に外交官試験に合格した矢田は中国領事館勤務を命ぜられ、大正元(1912)年に三等書記官としてイタリア大使館に赴任します。一等書記官に昇格してからはイギリス大使館勤務、さらにロンドン総領事の任につきます。矢田は背も高かったとのことですが、鼻下に髭をたくわえることで、日本人離れした風貌で外交任務を遂行したといいます(エチオピア人と間違えられたというエピソードもあります)。
 その後サンフランシスコやスイス総領事勤務をし、昭和9(1934)年1月に地元へ帰省した折には、田京駅から広瀬神社までの沿道で盛大な歓迎が行われました。
 翌月、今度は建国された満州帝国の参議府参議の拝命を受け、溥儀の側近となります。溥儀とは清国ラストエンペラーである宣統帝溥儀のことです。
 昭和10(1935)年4月に溥儀皇帝の日本訪問の随員として同行し、昭和12(1937)年に参議の職を解かれ、ようやく退職かと思われましたが、昭和15(1940)年に上海の東亜同文書院大学の院長兼学長に就任します。これは矢田が近衛文麿との交流から要請されたもので、近衛文麿は当時の首相であった人物ですから、矢田の外交官としての知名度を知る目安となるでしょう。
 戦後は公職追放の対象となり、年齢も70歳近くなっていましたので矢田は職に就かず、東京代々木で余生を過ごしました。
 韮山高校出身の外交官はあまり聞きませんが、このような人物を輩出していることは記憶に留めていいと思います。坦庵公の教えの影響を感じさせてくれるとともに、在校生や若き卒業生にも是非世界に羽ばたく仕事をしてもらえればと思います。
 
 
 
 



第45話 郷土研究と伊豆半島地図

2016/8/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


45

 韮山反射炉がユネスコの世界文化遺産に認定されたのが昨年7月8日のことで1周年を迎えました。このことで来場者は前年の6.8倍、72万人余を数えたといいますから、凄まじい勢いです。改めて郷土の歴史研究の貴重な資源と思ったのですが、現在韮山高校には郷土研究部がありません。小生が在学中にはありましたが…。
 私事ですが、現在静岡県高等学校郷土研究連盟の仕事をしており、本県の郷土研究部を数えると一桁台にあることに寂しさを感じます。部員が集まらないために廃部となっている学校が多く、何とか熱心な先生を開拓しているところです。レキジョ(歴女)も増えると思います。
 以前に第39話で校歌作詞者の穂積忠先生が、この郷土教育(研究)推進のために昭和6年1月に本校に赴任したことはお伝えしました。それ以前に韮山中学校教諭であった石井廣夫先生がこの郷土教育の調査協力者として指名され、月数回ほど訪問することになったそうです。この石井廣夫先生とは国学者萩原正平の嗣子であり、代議士萩原正夫の弟です。卒業生で60代以上の方ですとカーブこと石井岩夫先生のおじいさんに当たります。
 穂積先生がメインで、石井先生が補佐する形で昭和10年の韮山中学校の郷土教育事業として次の文書が残されています。それは次のものです。
  1、伊豆名所古蹟絵端書蒐集及びその解説(完成)
  1、韮山城址の模型。反射爐模型。韮山村現地模型の作製(完成)
 後者のものは社会科教室で見かけたように思います。
 さて、穂積先生は昭和6年4月に労作教育を推進する山本校長から郷土研究部長に指名され、生徒から部員を募ったところ20人ほどが集まりました。
 初年度は地理的研究と精神科学研究に分け、穂積先生は後者の指導担当になったので、民俗学的面に着目し、最初に収集要目目安を編輯し、次に方言収集と伝説、民間年中行事の研究に着手します。それは師匠の折口信夫先生やその上の師匠の柳田国男先生の流れからでしょう。この時の担当部員は5年生と1年生の10人ほどで、風俗習慣調査と方言採集整理を行っています。一方の地理的研究では伊豆半島のレプリカを作成します。これは現在の韮山高校図書室の奥に配置されています。見事なもので、是非一度ご覧ください。
 翌年には郷土地理関係は地歴部に併合されたため、精神科学を主とした郷土部として一本化されます。1・2年生は家紋及び符牒採集、3・4年生は龍城山の模型作り、民間年中行事の採集研究・昔話の採集を、5年生は伊豆国神社の研究、民謡の採集をそれぞれ段階的に行うなど高いレベルの部活動が存在しておりました。
 
 
 
 
 


第44話 後北条家と韮山高校

2016/6/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


韮山高校
後北条家

 韮山高校では江川坦庵公を学祖と仰ぎ、「忍」を校訓に文武両道を教育目標に掲げており、江川家あっての韮山高校のイメージ大ですが、実は後北条家も相当に関係大であることを認識してもらいたいと思います。既に23話で「龍城山と北条早雲」と題してご紹介してはあるのですが、まず現在の校舎の敷地が早雲の居住した館であったということです。早雲は堀越公方の足利茶々丸を追悼して、伊豆を平定したとあります。このことで早雲は戦国大名の先駆けとなったとされ、彼が教科書でゴシックになっている理由はここにあります。
 築城した韮山城は、龍が臥していることを模して龍城山と呼ばれるようになりますが、この名をいただいた韮高生は「龍城健児」と呼ばれる所以です。小生は「貴様、それでも龍城健児か!」と応援団に怒鳴られた歌唱指導を思い出します。近年は「龍城學報」のニュースが学校内外で流されておりますので、学校の様子を知ることができます。
 さて、早雲の子である氏綱は、父親が伊勢新九郎盛時(宗瑞)などと名乗っていたことに対して今一つの気持をもっていました。あえて北条氏を名乗ったのは、関東管領の上杉ら旧来勢力からみた時に、伊勢氏は外来の侵略者とみなされていたからです。そこで相模守護だった扇谷上杉氏に代わって相模国主としての正当性を得るため、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名を継承したのでした。
 早雲はお墓の中で、勝手に俺の名前を変えるなと思ったかどうか知りませんが、死後名づけられた名前となります。諱(いみな)とはちょっと違います。
 さらに後北条氏は家紋を「三つ鱗」としました。この三つ鱗が実は韮山高校校章に取り入れられています。ご存知の方もいらっしゃいますが、意外に卒業生で知らない方が多いです。よく間違えられたのは韮の字を模したというのですが、これは植物のニラを単に表しただけで、その後方に控える三角形こそ後北条の家紋です。
 つまり「龍城」という名称以外に、この家紋が韮山高校に大きく関係しているということになります(デザインは大正12年に美術の彦坂繁三郎先生が考案)。
 一方江川家は後北条家の家臣として代々仕えてきたのですが、第28代の英長は徳川家康に仕えます。なぜそうしたのかわかりませんが、秀吉の小田原征伐の時に家康の命を受けた江川英長は北条氏規に和議をすすめて開城に成功させるのです。これで江川家は大きくポイントを稼ぎ、なんと後北条家の家臣から徳川家の家臣に代わっていくのです。
 龍城山を眺めていると、そうした歴史の衰亡があったのかと感慨にふけます。
 
 
 
 
 


第43話 ハイレベルの学友会報・松籟

2016/4/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


松籟

 平成28年度新学期が始まりました。この時期は運動部はインターハイ予選があり、文化部は龍城祭に向けての準備が始まります。今年1月に後援会から韮高新聞が送付されましたが、小生も写真報道部の部活名でカラー刷りの見事な新聞を手にしました。ああ、韮高生たちはがんばっているんだなあという感慨と、かつてのモノクロの韮高新聞を思い出しました。
 このところ「龍城山下の作家たち」というテーマで文学関係を書いてきましたが、その土台は生徒会誌の『松籟』でしょう。この『松籟』の起源は『学友会報』にあり、これは明治30年(1897)に初めて刊行されました。旧制韮山中学校が発足して間もない頃です。今日で言うところの同窓会会報と生徒会会報が一緒になったようなもの、あるいは『松籟』と『龍城論叢』が合体したと思えばいいでしょう。
 当初は生徒の部活動の様子や遠足等の学校行事が詳細に報告されていましたが、次第に生徒や教員が随筆や評論を載せたり、短歌を発表する場になっていったようでした。
 校歌作詞者の穂積忠先生の恩師である加藤在巣先生は、白秋の門下におりましたが、この『学友会報』に歌や評論を寄せています。「沙金鈔」(百首)を発表し、この中で加藤先生は冒頭、「我、韮山に居住して既に二年有半、郷愁に胸ふさぎ慰め兼ねつる時折のありのすさびに詠み棄てし歌屑三千首にあまりぬ…」などと書き、自らの仮住まいを「炷薫草盧」と名づけています。これに対して穂積先生は茅愁と号して歌を寄せています。
 昭和2年(1927)2月発刊の『松籟』第30号は、大正天皇崩御に伴い、挽歌や反歌等が寄せられています。またこの号では小川五郎すなわち作家の高杉一郎先生が卒業生総代として答辞を述べています。この中で、「刻々滔々トシテ寄スル新思想ノ破濤ハ全社会ヲ揺シ世ヲ駆ッテ質實ノ風ヨリ詭激軽佻ノ俗ニ至ラシメンヤウシテヰマス」と書かれていますが、大正デモクラシー後の共産主義思想なのでしょうか。さらに「アノ城跡ノ松声ハ永ニ我等ガ彷徨ノ心ニ故郷ノ地ヲ思ヒ出サセテ呉レルデセウ」と、松籟を意識した文言が散りばめられています。
 戦前の『松籟』に寄せられた文章は、生徒も教員もハイレベルなもので、戦時中をはさみ、戦後昭和26年1月に復刊第1号が出されます。冒頭には「松風の音きくときはいにしへのひじりの如くわれはさびしむ」と斎藤茂吉の一句が寄せられ、「学生弁論について」とその後代議士になった小島静馬氏の評論が寄せられています。この号には全国を制したバレーボール部の様子も書かれています。
 韮山高校の国語力アップには是非、かつての『学友会報』や『松籟』を読むことをお勧めします。
 かくして龍城山下の作家たちは生まれたのです。
 
 
 
 




第42話 小出正吾と童話の世界

2016/2/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


小出正吾

 龍城山下の作家といえば、童話作家の小出正吾(1897~1990)が知られています。小出先生の祖父である市兵衛は、明治時代にプロテスタントのバラ宣教師を匿った人物で、義兄の花島兵右衛門と共に洗礼を受けました。このため孫にあたる小出先生自身も中学時代に受洗しキリスト教信者となっています。このことは彼の童話世界に大きく影響を与えたものと思われます。
 広い樹林のある箱根山麓の裾に、祖父市兵衛の山荘がありました。そこは市兵衛の屋号、桔梗屋の「桔」と市兵衛さんの「市」から「桔市(きいち)の山」と呼ばれ、多種の雑木に囲まれた、小出先生にとっての遊び場でした。戦後はここに居を移し、終の棲家としました。「桔市の山」とその周辺での思い出は、たくさんの小出童話となって作中にその面影を残しています。
 先ほどの中学時代とは旧制韮山中学校の時で、明治42年~大正3年まで在籍しました。彫刻家の澤田政廣も同じ頃学校に在籍した時があります。当時は江川坦庵公を学祖と仰いでいた時期でしたから小出先生も大変な影響を受けたようで、「忍」はもちろん、「敬慎第一、実用専務」といった坦庵公の精神を吹き込まれています。小出先生は伝記「江川太郎左衛門の話」を書いているのはその証左でしょう。実はこれは小出先生没後に発見された未発表原稿で、戦時中書いていたのですが戦後墨塗り対象者となったことで未発表になってしまっていたものです。
 中学校卒業後は早稲田大学に入学しますが、在学中に早稲田応援歌を作詞しています。またこの時寮の隣に坪田譲治がいて、彼の影響を受けて児童文学に興味をもつことになります。卒業後は貿易会社に従事し、24歳の時、10か月ほどインドネシアで暮らしたことがありました。
 そして大正11年(1922)郷里に戻り、キリスト教の新聞に創作童話を連載し、童話作家として出発します。その後、再び上京し、昭和2年(1927)に年明治学院中等部に職を得、高等部教授に就任して昭和19年(1944)まで務めます。
 空襲が激しくなったため、郷里三島に戻り終戦を迎え、戦後は三島市教育委員長に就任し、キリスト教ヒューマニズムの立場で創作を行っていきます。原水爆反対の会の会長になったのはそうした見地からでしょう。
 昭和41年(1966)から6年間日本児童文学者協会会長を務め、昭和50(1975)年には『ジンタの音』で野間児童文芸賞を受
賞しました。中央町にある文学碑には「子どもには、子どもの世界がある」と刻まれています。
 
 
 
 


 
 
第41話 高杉一郎 ~龍城山下の作家たち

2015/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


高杉一郎

 前回、前々回と穂積忠先生について紹介しましたが、韮山高校関係者に文学と関わった人物は他にもおります。
 高杉一郎(1908~2008)という名の作家をご存知でしょうか。シベリア抑留体験を書いた『極光のかげに』で一躍文壇にデビューし、その後は作家業と静岡大学教授として教壇に立った人物ですが、彼もまた龍城山下で学んだ龍城健児であったのです。
 高杉一郎はペンネームで、本名は小川五郎といいます。旧中伊豆町の白岩の生まれで、幼少時から天城山系を眺めて育ち、実家の上には巨峰で有名な大井上康博士が住んでいました。小学校時には大井上博士からフランス語を学び、「ラ・マルセイエーズ」を歌わせられたといいます。
 旧制韮山中学校へは自転車で修善寺駅まで行き、そこから当時二両連結の駿豆線に乗って通学しました。この頃の韮山中学校の講堂には、大きな目をくりむいた江川坦庵公の自画像が掲げられ、それを毎日仰ぎ見、坦庵公の伝記を読んでは理想像としていたことを述懐しています。
 1926(大正15)年に韮山中学校を卒業した後は、東京文理科大学(現筑波大学)英文科を卒業し、改造社に勤務した後、徴兵されてシベリア抑留を体験したのです。この時の過酷な収容所の体験記が戦後刊行されて、その内容をめぐって賛否をもたらすも、芥川賞候補となり、ベストセラーとなります。賛否についてはスターリン崇拝者と批判者の中で、理想とするソ連像とのギャップがあったからでしょう。
 高杉先生の奥様も教育者として戦後新制中伊豆中学校の教壇に立ち、やがて三島南高校への勤務を推薦されます。この時の三島南高校の校長が穂積忠で、高杉夫妻との縁がつながります。なお高杉先生の奥様の妹は日本共産党議長であった宮本顕治に嫁いでいます。また娘さんたちもロシア文学者として著名であります。
 高杉先生はその後静岡大学教授となって教鞭をとりながら、静岡県文学連盟を立ち上げ、無名だった小川国夫に着目するなど若手作家を育てていきます。その一方でロシア語の翻訳やアグネス・スメドレーの英語の翻訳をするなど精力的に動きました。99歳の長命で亡くなられましたが、生前少しでも取材できればと残念です。
 沼津東高校は井上靖をはじめ、芹沢光治良、大岡信といった作家を輩出し、韮山高校は美術家を輩出してきたことで知られていますが、実は穂積忠やこの高杉一郎といった文学関係者も先輩たちの中にいたことを忘れないでいただきたいと思います。
 小生も作家を夢見ていましたが、夢は夢に終わり、しがないサラリーマン教師となりました。


 
 
第40話 韮中生時代の穂積忠

2015/10/10 掲載

桜井 祥行(高32回)


 さて、前回に続く穂積忠について語りたいと思います。特に穂積忠が歌人となるきっかけとなった旧制韮山中学校在籍中の話です。
穂積忠が韮山中学校に入学したのは、大正2年4月のことで、明治天皇崩御により乃木希典が殉職したのはこれより半年ほど前の9月のことになります。
 穂積が韮山中学校在籍中、英語教師の加藤丈夫に出会います。当時加藤は北原白秋の弟子であり、在巣(アルス)と号する歌人でした。穂積に対して「……歌は白秋にかぎる。僕は白秋の弟子だ。君も一心に勉強するなら、巡礼詩社にも紹介しようと言はれた。……」と短歌の世界と白秋の存在を教えたのでした。
 加藤在巣は韮山中学校学友会会報で自ら詠んだ歌を発表しています。学友会会報はその後の「松籟」のことです。加藤が詠んだ歌を紹介したいと思います。
 
 淡々と薄霧る空に香ひして若芽くゆらし韮山の春
 狩野川の川瀬に若鮎つる竿の仄揺れ光る薄闇の中
 
 当時加藤は韮山山木に居住し、田方平野を歩いてこれら歌を詠んだのでしょう。早速穂積も茅愁の号で2年次から歌を寄せていますが、その中の歌として、
 
 白臘の如き姉の手凝視むればその白きよりかなしみのわく。
 病幾たび癒ゆるが如く思はれし姉もゆくべき生命なりけり。
 
 亡き姉を詠ったもので、憐憫の情を見事に表現しています。
 ところが、加藤は大正7年1月に亡くなります。穂積はこの時伊東で静養しており、師の傍に駆けつけることはできませんでした。この想いを翌年の学友会報に託します。この時の学友会報は「加藤先生を悼む」と題して追悼文が寄せられ、穂積自身も次のような歌を詠んでいます。
 
 虚蝉の生命なれば君殺し日にけに投息くそのなげき苦し。
 空蝉の人のこの代に子を殺し汝が父母の心いかならむ。
 
 深い悲しみの中、穂積は生老病死に向かいあい、見事に歌にしていきます。この時の歌は結びに句読点をつけていますが、白秋との関係が深くなるとこの句読点は消えていきます(注;白秋死後は再び句読点をつけるようになります)。
 そして旧制中学校を卒業し、進学先には国学院大学を選びました。この年に高等師範部が創設されたこともありますが、何よりも「万葉集」口訳で評価を得た折口信夫が同学で教えていることを聞き、入学を決意したのでした。
 この頃旧制韮山中学校では新たな校歌について懸賞募集をしましたが、なかなか決まりませんでした。穂積が大学を卒業して三島高等女学校で教鞭をとるようになった大正14年、作詞者として白羽の矢が立ちます。「空を仰げば魂ゆらぎ~♪」は、こうしてできたのでした。
 
 
 


 
第39話 旧制韮山中学校と穂積忠

2015/8/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

写真

 ついに韮山反射炉が明治日本の産業革命遺産として世界文化遺産となり、泉下の坦庵公もさぞほっとされたかと思います。関係者のここまで至る働きかけには頭が下がります。本当にお疲れ様でした。そしておめでとうございます。
 さて、この度、私事ながら韮山高校校歌作詞者の穂積忠の研究について上梓する機会を得ました。我らが先輩であり、著名な歌人である穂積忠先生について細々と研究してきたものではありますが、世間には子息穂積隆信氏が俳優としてその名前を知らしめており、父親の忠先生があまり評価されずにきたことに小生は気に病んでおりました。
 先生の作詞された校歌については、第19話「韮高校歌秘話」で紹介しましたが、この時は三島高等女学校に勤務していました。その後昭和6(1931)年1月20に旧制韮山中学校に赴任しました。年度途中であり残り2か月を残して転勤とはどういうことだったのでしょうか。
 実は忠先生は郷土教育(郷土研究)を田方郡下で推進するために、急遽転勤を命じられたからでした。昭和6年5月に静岡県学務部(現在の県教委)から郷土研究調査についての文書が残されています。この年国は各県にこのことを通達し、全国的規模で展開されたのでした。とりわけ旧制韮山中学校は田方郡の尋常高等小学校の統括的役割をもっていましたので、当然その旗振り役が必要だったわけです。
 その白羽の矢が、歌人である忠先生に立ったのはなぜでしょうか。忠先生は歌の師匠は北原白秋先生でしたが、学問の師匠は折口信夫先生でした。折口先生は民俗学者として知られ、その師匠にはさらに柳田國男がおりました。忠先生はこの両名と関わり民俗学についても勉強していたのでした。忠先生の研究に「伊豆の塞の神」「伊豆道祖神雑藁」といった論文も残されています。
 こうした理由で忠先生は郷土研究部の部長として、生徒と共に郷土研究を行ったのでした。残されたメモには「江戸時代の歌人及び俳人の研究」といった本業の短歌に関する研究や、「方言の採集及び伝説の採訪」といった民俗学の研究の題目が書かれています。
 さらにこの頃、山本幸雄県視学官が校長として赴任してきます。山本校長は労作教育の推進者であり、前年から始まった郷土教育と合体させて新たな教育を展開させていったのでした。忠先生はこうした校長の要請を受けながら、10年余り郷土教育分野で尽力したのです。旧制韮山中学校にはかような使命をもって赴任したのでした。
 傍らでは本業の短歌の世界を堅持し、白秋のもとに通いながら多磨短歌会発足に骨を折り、自ら
の処女歌集『雪祭』を昭和14(1939)年暮に出版しました。この歌集はいくつかの賞を受賞し、歌壇に穂積忠の名前を大きく刻んだのでした。そして忠先生は2年後、伊東高等女学校に校長として赴任していきます。
 
 
 
 


第38話 教科書にみる江川坦庵

2015/6/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
江川坦庵

 先月は韮山反射炉がイコモスから世界遺産登録の勧告されました。
 さて、戦前の教科書には韮山反射炉はもちろんのこと、坦庵公の名前はしっかり記述されていました。昭和18(1943)年発行の『初等科国史下巻』(文部省、東京書籍発行)には、「……高島四郎太夫・江川太郎左衛門らを用ひて、新しい兵器や戦術を研究させ、軍備の充実をはかりました。」とあり、韮山の反射炉の写真が掲載されています。代々代官の世襲名である太郎左衛門を明記しています。同様に大正10(1921)年発行の『新訂中学日本歴史下巻』(明治書院)にも、「……また高島四郎太夫秋帆・江川太郎左衛門坦庵をして、西洋の兵学・砲術を研究せしめ兵器を作らしめたり。」と記述し、やはり反射炉の写真を載せています。
 つまり戦前の教育を受けた人たちは誰しもが坦庵公のことや反射炉のことは知っていたのでした。小生の故伯父は栃木県に在住していましたが、戦前の修学旅行でなんと韮山反射炉がそのコースにあったと言っていました。
 ところが、戦後GHQ指令による軍事色の払拭のためにいわゆる墨塗りの対象となり、坦庵公の名前や反射炉は教科書から抹消されてしまったのです。
 坦庵公没後100年を記念して昭和30(1955)年に戸羽山瀚が『江川坦庵全集』をまとめられましたが、教科書記述には至りませんでした。小生は昭和50年代前半の高校時代に山川出版社の日本史教科書(当時赤色の表紙)を使いましたが、やはりそこには坦庵公の名前はありませんでした。
 その後、仲田正之先生が昭和60(1985)年に吉川弘文館から人物叢書『江川坦庵』を発刊し、かなりこの書籍が普及し、やがて仲田先生自身が坦庵研究で平成10(1998)年に博士号を取得したことで、坦庵公の再評価が決定的となり、現在は日本史Bの教科書に江川太郎左衛門の事績として記述されています。
 例えば、桐原書店『新日本史B』(2003年検定)には、「1853(嘉永6)年には幕府代官の江川太郎左衛門(英竜)も、伊豆韮山に反射炉を築造し、……」とあり、山川出版社『詳説日本史B』;(2012年検定)には、「幕府も末期には、代官江川太郎左衛門(坦庵)に命じて伊豆韮山に反射炉を築かせた。これら幕府や雄藩の洋式工業は、明治維新後に官営工業の模範となった。」と記述され、反射炉の写真も掲載されるようになりました。
 その他実教出版『日本史B』では脚注ですが、「秋帆から高島流砲術を伝授された幕府代官江川太郎左衛門(坦庵)は、伊豆韮山に反射炉をきずき大砲を鋳造したほか、……」と記述しており、ようやく認知度が高まってきましたが、まだまだ戦前の足元にも及びません。小生は学生時代、東京と京都に住みましたが、当時坦庵公の名前を挙げても相手にしてもらえませんでした。韮山高校の学祖である坦庵公の扱いについて、これまで反射炉の歴史等から伝えてきましたが、ご理解いただけたでしょうか。



 
第37話 反射炉あれこれ

2015/4/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 

 韮山反射炉の世界遺産認定決定までいよいよとなりました。昨年9月にイコモス(国際記念物遺跡会議)の現地調査が行われましたが、はたしてどうなるでしょうか。
 ここでは反射炉の裏話をお伝えします。小生は高校1年時の最初の遠足で訪れましたが、あの頃は無料で見学できたように記憶しています。
 さて反射炉の使用は1857(安政4)年に始まり、1864(元治元)年に中止となります。1866(慶応2)年に幕府直営から江川家私営となるのですが、維新後の1873(明治6)年3月に陸軍省に移管されたのです。
 その後反射炉は放置され、荒れるにまかされていたので、江川家当主の英武も大変悩みました。たまたま坦庵公没後50周年(1905)の頃、日露戦争勝利後で、反射炉が「日本における砲兵工廠の鼻祖」として保存気運が高まりました。この機に運動の先頭に立ったのが英武長女しげ子の女婿である山田三良(1869~1965、東大法学部教授)でした。彼が新聞・雑誌を介して保存運動を行ったところ、時の陸軍大臣寺内正毅が着目し、1908(明治41)年、陸軍省後援のもと補修工事が行われたのでした。この補修工事により鉄柵が施されます。坦庵公追慕会になぜ寺内正毅が出席したのかは、こうした理由からでした。
 大正時代になりますと、1922(大正11)年3月に内務省に移管され、この時反射炉は史跡名勝天然記念物法によって国史跡に指定されました。そして反射炉の維持・保存のために有志による「韮山反射炉保勝会」も組織され、当然のことながら会長に山田三良が、副会長に仁田大八郎が就いたのです。
 反射炉横に立派な石碑が建っています。「反射鑪碑」と揮毫されていますが、これは韮山反射炉保勝会が国史跡指定を記念してのものでした。標題の揮毫者は皇族の閑院宮載仁親王で、親王はこの当時陸軍大将でした。撰文は漢学者で東京大学教授を歴任した三島毅が行い、1926(大正15)年10月に建立されました。碑の内容は坦庵公が反射炉を建設にするにあたっての当時の背景や概況が刻まれ、最後に英敏や英武について触れています。ただ撰文されたのが1911(明治44)年になっているのは、おそらく補修工事が行われたのを記念して既に依頼されて書いてあったものと思われます。
 その後、1930(昭和5)年の北伊豆地震によって北側炉の煙突上部が崩壊するなどの被害を受けますが、1957(昭和32)年に再び鉄骨フレームが施され耐震補強されます。
 かなりの風雪をくぐりながら反射炉が存続してきたことを知っていただければと思います。
 英武女婿の山田博士に感謝です。


 
第36話 坦庵会と韮山高校

2015/2/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
韮山高校の歴史とその周辺

 本年は江川坦庵没後160年にあたります。亡くなったのは安政2(1855)年ですから、前年11月に安政の東海地震があって2か月後という時期です。
 本校学祖である坦庵公について、学校独自として顕彰しようという動きは坦庵公没後55年を記念しようというところからはじまりました。55年目は明治42(1909)年で、坦庵公の生まれた酉年にあたりました。命日が1月16日でしたから、早速この日に坦庵先生追慕会が開催されました。もちろんこの背景には前回紹介しました子息英武先生や英武先生の女婿である山田三良(東大教授)の尽力があったことが大きかったと思います。この月に山田教授のおかげで、韮山反射炉に現在あるような鉄柵の補強工事をすることができたのです。
 さて、追慕会には陸軍大臣寺内正毅をはじめとする各界の著名人たちが出席し、一般参観人は3000人を超えたといいます。時の県知事李家隆介が追慕之辞を、地元の元代議士である大村和吉郎とその後代議士になった床次竹二郎がそれぞれ追慕詞を読み上げています。そして英武先生からは謝辞が述べられ、ようやく坦庵公が旧制韮山中学校で学祖として改めて内外に印象づけた日でした。
 その後坦庵公を顕彰しようという動きが有志たちから起こり、昭和2(1927)年12月に坦庵会趣意書が作成されました。趣意書は「幕末の偉人江川太郎左衛門坦庵先生は天資英俊にして徳は文武を兼ね技は衆能を綜ぶ……」で始まり、「敬慎第一実用専務」主義を貫いたことが書かれています。さらに門弟として佐久間象山・橋本佐内・木戸孝允・井上馨・黒田清隆・大山巌・杉孫七郎・大鳥圭介等の名が挙げられ、坦庵公について徳川斉昭が「一方の長城」と、安積良齋が「文武兼備勇略超倫」とそれぞれ称したことも記されています。おそらく坦庵会は翌年1月16日を発足日としたのでしょう。
 そして第30話でもお伝えしたように昭和14(1939)年の1月16日には坦庵公胸像が建てられ、当日除幕式が行われたのでした。この前日は大相撲の横綱双葉山が、安芸ノ海に敗れて69連勝でストップするという大事件にも値する日で、除幕式当日の静岡民友新聞にはその模様が書かれ、その下に坦庵公の胸像の写真が掲載されていました。
 こうした先人たちが坦庵公を偲んできたことを紹介するとともに、ご冥福をお祈りしたいと思います。(合掌)


 第35話 江川英武と坦庵顕彰

2014/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
 

 坦庵公の嗣子である江川英武(1853~1933)は、韮山高校の前身である私立伊豆学校の校長であったことはよく知られているところです。小生はこれまでしばしば伊豆学校の存在をお伝えする中で、英武の教育面について取り上げてきましたが、晩年の英武は実の父である坦庵公の顕彰にひたすら務めた一人であることをここでは伝えたいと思います。
 英武は坦庵公の次男とはいえ、坦庵晩年の子どもなので坦庵が亡くなった時は齢わずか2歳でした。兄の英敏はその時16歳でしたから、父親のことはよく知っていたと思われますが、英武はほとんど覚えていない状況だったでしょう。にもかかわらず、父親を崇拝したのは、功臣であった柏木忠俊の影響があったと思われます。
 田中村(旧大仁町)教育会副会長である古見一夫は、大正7年1月16日の坦庵公命日の日に江川邸を訪問し、英武に坦庵公についての講演依頼をお願いしたところ快諾されます。古見が校長を務める田中尋常高等小学校(現大仁小学校)では坦庵公を景仰し、玄関正面に肖像を掲げ、毎月16日の日は職員児童一同坦庵公の墓のある韮山本立寺の方向に遥拝していたほどでした。
 さて、翌年の大正8年3月に、英武は田中尋常高等小学校に来校し、「亡父の訓言につきて」と題し講演を行いました。講堂には児童のみならず500人を超える村民があふれたといいます。この内容はその後、「坦庵先生の敬慎主義」と題して筆耕され関係者に配布されました。序文は田中村教育会長であり村長であった渡辺圓三が寄せていますが、彼は伊豆学校で学んだ一人でした。講演録を紐解くと、そこには坦庵が敬慎第一実用専務を掲げ、厳寒に火鉢も近づけず、食事は一汁一菜で、ご馳走は奴豆腐ばかりであったことなどが書かれています。あるいは水戸烈公と呼ばれた徳川斉昭と抗論したことや、勘定奉行の川路聖謨と激論したことも書かれ、英武生前の坦庵のエピソードが語られています。また反射炉の築造は至誠の賜物まで言及しました。
 おそらく幼少時から柏木忠俊あたりから聞かされてきたのでしょう。坦庵会等が結成されていますが、英武は坦庵の研究者であり、親子関係ではなく公人として坦庵を顕彰したことは評価できると思います。
 近年の韮高生は1年生になった4月の遠足で坦庵公の墓参りをしているようですが、以前は1月16日の命日に本立寺に足を運んだものでした。今年は没後160年目にあたります。



第34話 韮高修学旅行今昔

2014/10/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 10月を過ぎると修学旅行を行う高校が少しずつ出てきます。韮山高校では例年11月前半に2年生を対象に、長崎・熊本といった九州方面の旅行が企画されています。小生が在学していた頃は京都・奈良というお決まりのコースで、中学校時代とあまり変わりばえしませんでした。今は3泊4日ですが、小生の頃は4泊5日でした。
 そもそも修学旅行はいつ頃始まったかというと、明治25年(1892)に文部省で修学旅行奨励の訓令が文部大臣から出されています。
 しかし精神鍛錬の軍隊式だったためなかなか浸透しなかったようで、明治34年(1901)頃から方針を変えて現在のような形になったといわれています。
 本校はこの面では先進的で、県立移管した明治30年(1897)年11月に3泊4日で箱根・小田原コースの修学旅行を行っています。これは『韮山中学校学友会報』に「修学旅行日誌」として残されています。
 旧制韮山中学校初代校長の小永井校長を総監として、中隊長に小松少尉を据えて生徒149人、職員11人の規模で11月10日の朝出発しています。学校を出発して山中城まで歩き、そこから箱根路を歩き、箱根神社を参拝しています。箱根に1泊し、翌朝熱湯の湧き出る小湧谷を歩き、箱根湯本を通り、早雲寺に立ち寄りました。その後早川を抜け、小田原城に到着します。その日は小田原に1泊しています。
 次の日朝、小田原を出発し、根府川を通り、熱海の伊豆山に着き、そこの尋常小学校生徒たちの出迎えを受けています。そしてそのまま熱海に宿泊しました。
 最終日は朝伊豆山神社を詣で、ここで北条政子関係の宝物を拝観しています。伊豆山から日金山へ登り、軽井沢へ下り、平井を抜けて夕方5時に学校に到着しました。
 全行程で歩いた距離は約96キロで、1日平均24キロほどでした。精神鍛錬もありましたが、韮山高校ゆかりの中世の歴史を学ぶ機会にもなっていたようです。それは北条早雲関係で、小田原城や山中城をはじめとする後北条家を辿るコースでもありました。以前もお話したように早雲は龍城山の韮山城を築城して、今の志龍講堂あたりに位置するお屋敷で亡くなっていますから、当時の生徒たちにとって歴史を体感する機会でもありました。
 何かの機会で、こうした歴史コースをウォーキングすることを企画しても面白いかもしれません。


 第33話 韮山高校と慶応大学

2014/08/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 韮山高校から大学に進学する生徒たちは例年ほぼ100%であると思います。
 世間では大抵が東京大学何人、京都大学何人…という言い方で高校の格付けをするようで、実際に週刊誌等では学校ランキング付けとして、一流大学の紹介には旧帝国大学をはじめとして私立の早慶上智、そして医大の名が挙げられるようです。
 世間に出れば関係ないと思うのですが、学閥なる言葉や同窓会の類はよく耳にしたりします。
 さて皆さんは韮山高校が慶応大学と関係が深いことをご存知でしょうか。慶応義塾大学はご存知一万円札の方が創立者ですが、以前このシリーズの最初の頃に福沢諭吉が坦庵公の薄着を真似したことを紹介したと思います。諭吉と一番関係深いのは本校創立者である柏木忠俊でしょう。おそらく両者は幕末長崎で出会っていたはずです。
 さて、諭吉が芝新銭座有馬家中屋敷を購入したのが慶応3年(1868)12月25日のことでした。すなわち慶応義塾の校舎にあたります。その2年後の暮に彼の出身の中津藩邸が類焼したため返却を求められたため、明治3年9月に隣接する江川家長屋敷を借りて塾を続行していったのです。この屋敷門こそ今日の江川邸の玄関門です。この手続きに柏木が一役買ったのでした。
 そして福沢は『英国議事院談』を訳し、忠俊に送ります。これこそ忠俊の韮山県・足柄県政の鍵となる本(バイブル)で、忠俊は議会を開設し、県下の各地域の 要求や意見を県政に生かそうと代議制を採用します。こうして伊豆の民衆の知識水準、政治意識を高めていったのでした。伊豆学校(韮山高校前身)卒業生は小田原の英学塾で学び、そうして慶応義塾に進んだのでした。英学者仁田桂次郎はこの流れで進んだ一人です。
 また、函南町大竹出身の田中鳥雄の子息萃一郎(1873~1923)は慶応義塾で学び、一旦は伊豆学校校長心得で韮山の地を踏みますが、再び慶応義塾に戻り史学科を創設します。
 おそらく今日、慶応大学の指定校推薦枠はあろうかと思いますが、長い歴史をみれば10人ぐらいは指定枠で入学させてもらってもいいのではと考える次第です。高校大学連携校として当然認められるべき歴史は刻んでいると思うんですがいかがでしょう。


第32話 英語教育(英学)と伊豆学校

2014/06/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 韮山高校が火災に遭ったのは明治13年(1880)5月と、昭和34年(1959)2月の2回ほどあります。このうち、前者においては校舎が全焼したために龍城小学校(現韮山小学校)の一部を借りて授業を行ったとのことですが、さて新校舎をどこに再建するかでは議論されたようでした。一つは現在地、そして三島と大仁がそれぞれ候補となり、最終的には現在地に落ち着き、それが龍城山三の丸、すなわち現在のソフトテニスコート場でした。
 この新校舎が竣工したのが、明治15年(1882)6月ですから、今から132年前のことになります。この年の暮れには校名を町村立中学伊豆学校としました。
 4年後には、町村立伊豆学校とし、英語・数学・漢学の3学科を設置し、英学専修科を設けて本格的な英語教育を始めたのです。この年、すなわち明治19年(1886)はどのような年だったでしょうか。それは鹿鳴館時代の後期で欧化政策がとられ英語教育が推進された時代で、三島には薔花(バラ)女学校が設立した時代でもありました。
 明治21年(1888)1月に開校した私立伊豆学校では江川英武校長自らが英学を教えたとのことですが、それ以前の段階で英語教育が推進されていたことは注目されることでしょう。
 近年といいますか最近はグローバル教育の推進のもと、英語教育が推進され小学校でも英語を学ぼうという時代になっていますが、行き着く先は会話力の向上により、英語での日常会話が流暢にこなせることが目標となってきているようです。
 当時は会話能力を求めるよりもむしろ、英語読解力を高めることに主眼が置かれ、他教科も横断的に英書を読んで数学を解いたり、理科を学んだりしたようでした。英学専修科とはまさにそのコース制を取り入れたものでしょう。
 この英学専修科は小田原にもあり、ここを経由して慶応義塾で英学を究めるのが一つのパターンだったようです。田方農林学校設置者の仁田大八郎の叔父にあたる仁田桂次郎はこうした経歴で学んだ一人で、後に「新策」と題して英学の重要性を私立伊豆学校に提言しています。
 小生は英語ができなくて一浪を余儀なくされた一人ですが、後年海外へ行って英会話の重要性を身をもって知りましたので、スピードラーニングとまではいきませんが、英会話は今も必要かなと思う次第です。


 
 
第31話 担庵公と二宮尊徳

2014/04/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 坦庵公が質素倹約を旨としていたことは、よく知られています。屋敷の畳はすりきれてぼろぼろであったとか、衣服も木綿で、食事も一汁一菜であったといいます。
 これは以前にもお伝えしましたが、冬場は袷(あわせ)1枚で過ごして、火鉢を使わなかったということで、当時中津藩(大分県)の少年福沢諭吉が、それに挑戦したことがあったくらいでした。
 その根底には二宮尊徳(1787~1856)の報徳思想が入っていたと思います。報徳思想には勤労や分度というのがあり、これは勤労することで日常のすべての行動が誠の状態から行われるため、当然それが消費活動にも現れることになります。そして無駄がなくなり、贅沢を自ずから慎むようになる。これが分度と呼ばれます。つまり、分度とはけちをすることではなく、至誠から勤労した結果として自然と使わざるをえないものができ、他のものは残すということを意味します。
 少々哲学的な表現になりましたが、剰余したものは貯蓄をしていくという、このサイクルを尊徳は頑なに守りらせました。おかげで尊徳の指導した地域はどこも必ず財政が安定することから、彼は各藩からひっぱりだことなったのです。
 坦庵公も韮山の多田家の借財整理に頭を悩まし、さっそく尊徳公にお願いし、天保11年(1840)に初めて尊徳公は静岡県の地に足を踏み入れ、多田家を指導したのでした。報徳のメッカである大日本報徳社の本部は掛川市にあり、ここでは岡田佐平次が尊徳公に師事し、報徳精神を同地にもたらしたのですが、尊徳公本人は掛川には訪れていません。唯一訪れたのが韮山の地だけなのです。
 しかし、坦庵公は倹約と吝嗇(けち)とは区別していました。1850年にイギリスのマリーナ号が下田港に入港してきた時には、高価な蜀江の錦の袴を新調して対応したといいます。
 よく本当の金持ちは、普段はつつましく、いざという時には大金を出すといいますが、まさにそれに近い形かもしれません。
 坦庵公はこうして民生を安定させたことで、「江川大明神」と呼ばれたりしましたが、贅沢になれきってしまった方は是非参考にしていただきたいと思います。


 
第30話 担庵公胸像の歴史

2014/02/10 掲載

桜井 祥行(高32回)
  

 韮山高校の校門をくぐって校舎側へ行かず、左の体育館入口の方へ歩いて行くと坦庵公の胸像が立っています。本校の創立者というよりも学祖様ですので、多少なりともそこに刻まれている文章は読んでおいてもいいでしょう。次のように書かれています。
 
 江川太郎左衛門英龍先生資性英邁人格高潔邦家至寳之偉人矣以憂國濟世之至誠夙究東西學術之深奥而施諸普一般即自兵制鑄砲外交海防至教育医術悉為時代開拓之先陣矣寔當時一方之長城也其為代官也質素剛健中正公平勤勉自疆以躬垂範徳化洽於郷國可謂治國經世之亀鑑也亦復孝忠之心殊敦厚虔々敬神帰依佛法深信其師敬愛無變其意志強毅學不倦行不懈孜々烈々忍持久々精勵惟勤可謂亦教學修養之良師也本校十五回卒業生佐野忠司君寄附建設本胸像及竣工陳所懐曰供母校生徒諸君之教養文部大臣   以為美舉題字之諸子斯幸接其英姿當得薫染感化美嗣偉人也
昭和十四年一月 静岡縣立韮山中學校長山本幸雄撰 同教師彦坂繁三郎書
 
 文部大臣の名前がありませんが、おそらく荒木貞夫ではないでしょうか。
 この胸像は昭和14年1月16日の坦庵公命日に除幕式が行われ、澤田政廣による作品でした。台座は第27回目で述べた労作教育の作品です。胸像寄贈者は佐野美術館を創立した佐野隆一の弟の忠司で、二人とも本校で学んでいますが、隆一は野村証券の前身の大坂屋証券の専務取締役を務めた人物でした。
 ところが戦時中に銅像等の非常回収により坦庵公胸像は供出されてしまいます。戦後再び澤田政廣の手により胸像が彫られ、昭和28年6月7日に除幕式が行われました。澤田政廣は本校で学び文化勲章を受賞した有名な芸術家です。
蓮池の周りには他にも開学百年碑や講道館韮山分場の碑など幾つか碑が立っています。
なかなか気付きませんが、意外な歴史が潜んでいたりします。


第29話 担庵命日

2013/12/10 掲載

桜井 祥行(高32回)

 江川坦庵公が亡くなられて160年近くたちます。亡くなられたのは安政2(1855)年1月16日のことです。しかしこれは旧暦ですので、新暦では3月4日となります。この頃は高校入試の頃ですから、大変冷え込む時期です。
 若い頃から剣道をはじめとして、山猟など猛訓練をして体を鍛えてきたのですが、何しろこの時期あまりにハードスケジュールでした。ペリー来航はこれより1年半ほど前になりますが、かねてから海防について幕府に建議していましたので、すぐに勘定吟味役に引き立てられ、幕府政治に参画するように要請されます。
 そこで江戸と韮山を行ったり来たりしますが、翌年1月再びペリーが来航します。あまりの多忙で3月には江戸城で頭痛に襲われ、その月は病臥しています。5月にも同様の症状がみられ、そんな中で今度はロシアからプチャーチンが来航します。
 ところがその年の11月に安政の大地震が起き、プチャーチンの乗るディアナ号は船底を大破します。修理のため戸田へ出帆している途中富士で座礁し、今度はロシア船建造ということになりました。
 これら陣頭指揮やら調査やらで下田へ行ったり戸田へ行ったりするわけです。さすがに12月には風邪でダウンしてしまいます。かなり重症なのですが、その状況を幕府は知ってかしらずか、江戸へ来るようにとの連絡が入り、生真面目な坦庵は出かけるのです。
 家臣が止めるのもきかず韮山を出発しますが、当然のことながら小田原で風邪が悪化し、江戸に着くや寝たきりとなりました。
 体が弱まっている時の風邪ですから、おそらく今でいうインフルエンザに近い症状で、肺炎も併発したようです。こうした中で坦庵公は正月を超えて亡くなられました。
 時の筆頭老中であった阿部正弘は大変悲嘆し、次の歌を詠みます。
  空蝉は限りこそあれ真心にたてし勲は世々に朽せし
 坦庵の柩は25日に到着し、菩提寺の本立寺に葬られたのでした。
 小生が在学中は、1月16日近辺のLHRの授業中にお墓参りに行った記憶がありますが、最近は1年生の春の遠足の時にお墓参りをしているようです。
 改めて坦庵公に合掌です。